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私的興味の夏の甲子園!(3) 46年ぶりの3日順延。ではその1975年夏の優勝校は?

楊順行スポーツライター
1975年夏は金属バット導入2年目、打高投低時代の幕開けだ(写真:アフロ)

「申し訳ないけど決勝では、ふつうにやれば大差がつくと思っていた。ただ雨で2日流れ、仕切り直しで1回戦みたいな気分になったから、あそこまで苦戦したんでしょう」

 第103回全国高校野球選手権大会は、12、13日に続き14日も雨天による順延となった。3日連続の全試合順延は、第57回大会(1975年)以来46年ぶりだという。

 その75年は、台風5号と6号による記録的な長雨の影響で、8月16〜18日の3日間が順延され、さらに決勝が行われたのも22、23日と雨による2日順延後の24日。もともと23、24日には、プロ野球の阪神対ヤクルト戦が甲子園で予定されていたが、5日間の順延があった高校野球を優先し、日程を変更している。

 そのときの決勝を戦ったのは、習志野(千葉)と新居浜商(愛媛)だ。習志野が9回、5対4とサヨナラ勝ちして優勝するのだが、冒頭は習志野を率いた石井好博監督の回想である。石井監督は、自身が現役だった67年にもエースとして優勝。優勝投手が母校を率いて優勝するのは、石井が史上初めてだ。

 その石井、早稲田大に進んだが右肩痛に悩み、リーグ戦の登板はわずか2試合。野球はあきらめ、卒業時にはある企業への就職が内定していた。ところが、習志野の当時の監督が家庭の事情で退くことに。後任を託された石井は内定先に頭を下げ、あえて留年して教職課程を履修しながら、母校の監督を引き受けた。それが、72年。大学5年生という、学生監督の誕生だ。

優勝投手にして、母校を率いてもV

 掛布雅之(元阪神)が2年生だったこの年、習志野は5年ぶりに甲子園に出場したが、73、74年は千葉のライバル・銚子商が4季連続甲子園へ。74年の夏には、エース土屋正勝(元中日ほか)、2年生四番に篠塚利夫(元巨人)で、全国制覇を果たす。やはり、土屋君はよかったですよ……かつて取材したとき、石井はこう語っていた。

「74年の夏は千葉の4回戦で銚子商に当たったんですが、私は内心勝てないと思っていました。翌年の主力である小川(淳司・元ヤクルトほか)ら、下級生が中心のチームでしたから。実際、0対2で負け。ただ、試合に出ていないのを含めて、下級生がみんな泣いていたから、来年はおもしろいと思った記憶があります。上級生のために力を尽くし、チームがひとつになった感じがありました」

 実際、小川をエースに据えた新チームは、手応えどおり強くなった。74年秋は県大会で優勝し、関東大会でもベスト4で翌75年のセンバツに出場する。このときは初戦で豊見城(沖縄)に敗れたものの、春の千葉県大会でも優勝。夏は銚子商と準決勝で当たり、小川の2ラン、投げては徹底して篠塚との勝負を避けるなどで2対1と、3年ぶりの夏の甲子園につなげた。

 甲子園でも、旭川竜谷(北北海道)との2回戦に勝つと、足利学園(栃木)、磐城(福島)、広島商との準決勝を小川が3連続完封。磐城との準々決勝では、全員複数安打の23安打16得点と、打線も爆発した。

「センバツで豊見城の赤嶺(賢勇・のち巨人)君に完封されてから、徹底的に打撃を鍛えましたね。グラウンドに照明がなかったから、発電機を買って照明をつけ、打撃練習。合宿中は、夜中の1時までティーバッティングをして、翌日は早朝からランニング。みんなセンバツで負けて悔しかっただろうし、"よそはまだやっているぞ"とハッパをかければ、黙々と打ち続けた」

 と石井は振り返る。金属バット導入2年目、選手たちも扱いに慣れたのかもしれない。

 広島商との準決勝は、これも雨で1時間45分の中断があった。再開したとき、エース・小川は肩の調子がおかしくなったそうだが、新居浜商との決勝も雨で2日間順延。そういう天の恵みもあり、決勝は5対4と競り勝つわけだ。

 前年の銚子商に続く千葉県の連覇。同一県の別チームによる連覇は、選手権史上2度目のことだった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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