2年ぶりに開催された第93回選抜高校野球大会では、神奈川の東海大相模が優勝した。これで神奈川は、1960年代から各10年代に少なくとも1回は優勝していることになる。継続中のものとしては、30年代からずっと優勝のある大阪に次いで2番目の数字だ。また東海大相模は、春は3回目の優勝で、夏の2回と合わせて5回。同じ神奈川のライバル・横浜も夏2回、春3回の優勝があり、全国優勝5回以上のチームが複数あるのはほかに愛知と大阪だけだ。

 横浜の甲子園通算成績は58勝29敗、相模47勝17敗。いわずと知れた、神奈川の両横綱である。創部は、45年の横浜が先だ。63年夏の甲子園に初出場すると、いきなりベスト4まで進んでいる。一方の東海大相模は、横浜が初出場した63年、学校創立と同時の創部である。

 神奈川の高校野球が強くなったのは、戦後のことだ。戦前まで、夏の大会では東京やのち静岡と代表枠を争い、甲子園に出られない年も多かった。で、戦前の甲子園の成績は春は未勝利の1分け7敗、夏も4勝6敗にすぎない。初優勝は49年夏の湘南。屈指の進学校だが、なにぶん戦後間もない時代である。有力なOBの多い県立の名門ほど、外部からの支援もあり、部活動の再興が早かったともいわれる。優勝した湘南には、のちにプロ野球選手、また評論家として知られる佐々木信也が2年生にいた。

 その後、神奈川の高校球界をリードしたのは法政二だ。52年夏の初出場を皮切りに、57〜61年の夏は5年連続出場。その間には優勝、準優勝とベスト4があり、おまけに60〜61年には夏春連覇を達成と、柴田勲(元巨人)をエースに最強を誇った。以後、60年代の神奈川は慶応、横浜、武相、鎌倉学園などがしのぎを削ることになる。その激戦地に割って入ろうとしたのが、東海大相模だ。

男なら都で勝負したい

 65年夏、福岡の三池工が甲子園で初出場優勝を果たした。これを率いたのが、原貢監督。原辰徳・現巨人監督の父だ。このときは、2回戦で東海大一(現東海大静岡翔洋)を11対1と粉砕しており、この戦いぶりを見た東海大学の創始者・松前重義氏が、創設間もない相模の監督に招へいしたのが66年だ。

「男なら都で勝負したい」と九州から乗り込んできた原監督は、69年の夏には早くも東海大相模を甲子園初出場に導き、翌70年はセンバツにも初出場すると、その夏にはイッキに全国制覇を遂げている。71年夏には、やはり新興勢力の桐蔭学園が優勝。同じ県の別のチームによる大会連覇はそこまで春2例、夏に1例しかなく、しかもいずれも戦前で、「神奈川を制するものは全国を制す」といわれた。

 横浜のOBで、65年からコーチを務めていた渡辺元(のち元智)が監督に就任するのは、68年の秋だ。そこまで、横浜と東海大相模の両者は、夏に限れば66年、3回戦で一度対戦しただけだ。このときは横浜が、原監督就任間もない相模を15対0で圧倒している。だが、渡辺監督が初めて夏の采配を振った69年。両校は決勝で激突すると、今度は相模が2対0で快勝し、初の甲子園出場を決めている。両校のライバル物語が本格的に始まるのは、この69年夏の決勝対決からだといっていい。

 ただ……原が東海大相模の監督を務める間、横浜は夏に辛酸をなめ続けた。72年は準々決勝で3対4と敗れ、エース・永川英植(元ヤクルト)でセンバツ初出場優勝を飾った73年は、相模と当たる前の準々決勝で桐蔭学園に敗退。永川が3年になった翌74年、横浜は2年続けてセンバツに出場し、夏は原辰徳が入学した相模との対戦が注目された。事実、勝ち上がった両者は、夏は2度目となる決勝で対決する。永川は4安打と好投したが、バックの4失策もあり、横浜はまたも1対4で敗れた。さらに翌75年も3回戦で相模に1対5の敗戦……夏の神奈川で、4連敗だ。原より9歳下の渡辺は、こう述懐する。

「東海大相模というよりも、原さんを強く意識していました。"打倒・原貢"ですよ。またあのころの神奈川にはほかにも桐蔭学園に奇本(芳雄)さん、横浜商に古屋(文雄)さん……いずれも、ぶっ倒れるくらいの練習をしていた時代でしょう。それより上の練習をしなければいけないと、こちらも親に申し訳ないくらいの練習をしていました(笑)」

 それだけやっても、相模にはなかなか勝てない。74年のセンバツ出場は原辰徳の入学前だし、横浜は結局、辰徳の相模在学中には、一度も甲子園に出られていない。対して相模は、その3年間で夏3年連続を含む4回の甲子園に出場し、75年センバツでは準優勝を果たしている。だが……77年、辰徳の進学とともに父・貢が東海大の監督となると、その夏こそ甲子園に出場した相模が、今度は雌伏の時代を迎えることになる。(続く)