「うまくハマってくれたと思います」

 というのは明豊・川崎絢平監督だ。3試合とも打順を目まぐるしく変える明豊。「だれがザ・四番とかいうのではなく、とにかくつなぐことを考えた結果」、一番に起用された幸修也が、大会14人目の先頭打者ホームランだ。実は、智弁学園の一塁手がファウルフライを落球し、命拾いしての一発。智弁・小坂将商監督が「あれ(落球)が痛かった」と悔やむプレーは、川崎監督にとっては逆に「先頭打者ホームランがチームに勇気を与えてくれました」。

 勢いづく明豊打線は、四番に入った黒木日向が3回、5回といずれも2死からタイムリーを放つなど、打順にこだわらない打線が有機的につながった。終盤は智弁に猛追されたが、3投手の継投、さらに6回2死一、三塁から、あわや同点というヒット性の打球を、レフト・阿南心雄がフェンスに激突しながら捕球するビッグプレーも出た。かくして明豊は、14年センバツ覇者を倒し、中止された前回をはさんで2大会連続の4強進出を遂げるのである。

 2001年夏の初出場時をはじめ、甲子園では8強以上がこれで5回目と、すっかり上位の常連となった明豊。今宮健太(ソフトバンク)をはじめ、プロ球界にもOBは多い。だが創立は1999年と、まだ若い。学校法人別府大学を母体とする別府大付が学校法人明星学園と合併し、誕生したのが明豊中・高校。だから、すでに閉校した別府大付が、ルーツのひとつといえる。

高校通算70本塁打の大物とは? 

別府大付といえば……大物OBがいる。現在はソフトバンクの球団会長付特別アドバイザーを務める城島健司だ。その城島に、高校時代の思い出を聞いたことがある。

「在学していた時代とは校名が変わりましたけど、01年夏を初めとして、甲子園に出場してくれるのはうれしかったですね」

 と、明豊"OB"は切り出した。

「ただ僕はね……甲子園に対する意識とはそこまででもないというか、あんまり目標にしていなかったんです。高校で野球が終わり、とはこれっぽっちも思わず、高校に進学するときもオヤジから"甲子園じゃメシが食えない"といわれていましたからね。もちろん高校でやっていくうちに、甲子園に出たいという気持ちはだんだん強くなりましたけど」

 一時は、父親のあとを継いで漁師になるつもりだった、という。中学から高校に進むときに、野球をやめていたかももしれないのだ。当時から、大型捕手として長崎県内で名を轟かせていた城島、佐世保市内の強豪校に進学が決まりかけていたが、挨拶に出向いたとき、そこの監督が「城島君には、秋の新チームから期待しています」。2学年上に、ドラフト候補の捕手がいたからだ。これが、鼻っ柱の強い少年にはカチンときた。

「オレは、将来プロに行くことを心に決めた人間。入学してすぐからバリバリやるつもりでいたのに、こんな監督の下ではやりたくない。やめます」。

 タンカを切ってから、しまったと思った。もうあらかた、有望な野球少年は進路を定めている時期。残る枠数は少なく、どこかの学校が誘ってくれる保証はない。まあいいや、そのときはそのときで漁師になればいい……ハラをくくった。やがて、大分県の別府大付属高(現・明豊)から声がかかり、漁師にはならなかったのだが……。そして入学式前日の練習試合にいきなり出場すると、2試合で4ホーマー。入学式翌日の地区リーグ戦では、すぐさま四番に座ってサヨナラホームラン。甲子園出場歴こそないが、これが高校時代通算70ホーマーの幕開けである。しかも、中学時代は軟式野球で硬式の経験はなし。親元を離れたばかりの15歳の少年にしては、やることがでっかい。だが城島は、こともなげにいう。

「一から球拾いをやって、3年間でプロになるつもりでしたから、実家を出るのもさして問題なかった。それと野球って、軟式より硬式のほうが楽なんですよ。初めて打ったときに、ボールってこんなに飛ぶのか、硬式ってこんなに簡単なのかと思いましたから。バッティング練習では、僕だけ金属バットを使わせてもらえませんでした。ボールが場外に出ると、球拾いが大変でしたから。だけどいつも木のバットで打っていたので、ボールを飛ばすコツみたいなものがつかめたんでしょうね」

 これだけ飛ばす才能に恵まれていれば、3年時は敬遠だらけ、だれもまともに勝負してくれなかったのもうなずける。甲子園には縁がなかったが、一度、見学には行った。ドラフト候補として名前が挙がるようになり、

「甲子園に出る同級生の選手はどれだけのレベルなんだろう……と。実際に対戦することはないわけですから、違う目で見ましたね。北陽(現関大北陽)の嘉勢(敏弘・元オリックス)あたりが投げていました。超高校級といわれていてね。まあ、ネット裏から見ていましたから、レベルを比較するのはなかなかむずかしかったですけどね」

見えないライバルがいっぱい

 高校に入学したとき、卒業時にはプロに指名されるような選手になる、と全員の前で宣言した。高校生の場合、チームや地区で図抜けた存在になると、どうしてもテングになりやすい。だが、あくまでもプロを視野に入れている城島にとって、ドラフト指名のライバルは高校生を飛び越え、社会人であり、大学生だった。

「高校の監督が”見えないライバルがいっぱいいるんだよ“と手綱を締めてくれたおかげで、甘えたり手を抜いたりすることがなかったんだと思います。すごい選手というのは、なにかヒントを与えてくれているんですよ。タマが速ければ、そのフォームであったり、下半身の強さであったり。そこで”すごいなぁ“で終わらないで、ヒントを探すんです。なんで? どこがすごいんだろう? って。そうすると、自分のやるべきことが見えてくる。そういう好奇心が、あったんです」

 そして94年、ドラフト1位指名でダイエー(現ソフトバンク)に入団すると、3年目の97年から定位置の座を手に入れることになるわけだ。以来、日本では244本塁打、打率も3割近い強打の捕手。09年のWBCでは正捕手として金メダルに貢献し、マリナーズでも活躍したのはご存じだろう。明豊のルーツには、こうした大選手の存在があるのだ。