写真は、「奇跡の青獅子旗」である。

 都市対抗野球では例年、全国各地で2次予選が行われ、その優勝チームに青獅子旗が与えられる。2010年の東北地区を制したのは日本製紙石巻で、都市対抗初出場を果たしていた。だが、翌年3月11日。その証である青獅子旗は、石巻を襲った津波に、展示していた応接室の建物ごと流された。

 その日チームは、初めて出場した東京スポニチ大会で準決勝に臨んでいた。トヨタ自動車、日本通運、JR東日本という強豪に3連勝してAブロックを突破し、11日がNTT西日本との準決勝。そこでは敗れたが、都市対抗の連続出場と初勝利を目ざし、幸先のいいスタートといえた。だが……。

 2時46分、東日本大震災発生。そのときの話を、当時監督を務めていた木村泰雄氏に聞いたことがある。

「試合を終えて、八王子の宿舎に戻ったところでした。部屋は10階あたりで、ビルが壊れてしまうのでは……というほどの揺れでした。テレビをつけると、東北が甚大な被害を受けている。各地の映像が次々と報じられますが、石巻の情報は入ってきません。工場がどのくらいの被害を受けているのか、従業員の安否など、状況がわからないまま一夜を過ごしました」

 翌日から、家族を残している選手ら10名ほどが2日がかりで地元に戻った。残りの選手は日本各地の工場などに散らばり、全員が石巻に戻ったのは3月の下旬。その後は野球どころではなく、泥やがれきの撤去などの復旧に従事した。2カ月ほどは、食事は支給されるおにぎりだけ。入浴もままならない生活だ。チームづくりは当然、一からやり直しになる。それどころか、甚大な被害にチーム存続を危ぶむ声もあった。だが当時の倉田博美工場長がのち「(野球は)石巻工場が一致団結して復興に向かう力になる。野球部は石巻工場のチームから、日本製紙グループのチームになったと思う」と語ったように、5月中旬からは練習を再開した。

工場のチームからグループのチームに

 とはいっても、練習会場に借りる石巻市民球場は自衛隊の基地となり、また従業員や市民感情を思えば地元での練習ははばかられる。そこでグラウンドの提供を申し出たのが、日本製紙の旭川事業所だった。6月には静岡・富士工場、さらに山口や熊本の両県と各地の工場や事業所の施設で練習を重ねた。そこでは、各地の従業員とのあたたかい交流もあった。「日本製紙グループのチーム」というのはそういう意味だ。

 チームは、宮城県予選の始まる7月中旬に石巻に戻った。そのころである。重機で敷地内のがれきを撤去中、青獅子旗が見つかったのは……。その偶然は、野球熱の高い石巻市民を励ますかのようだった。色あせ、泥で汚れ、金の房の縁取りはところどころが破れていたが、「奇跡の青獅子旗」は復興への象徴として、その年10月末から開かれた都市対抗で、京セラドームのコンコースに展示された。

 日本製紙石巻は残念ながら、その11年の都市対抗出場は逃したが、13年、2回目の大舞台ではチーム最高のベスト8入りを記録している。あの大災害から、節目の10年。チームは初めての都市対抗連続出場、そして13年のベスト8超えを目ざし、いま静岡・掛川市でキャンプ中である。