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高校ラグビー100回、『スクール☆ウォーズ』から40年。で、山口良治さんのことを(3)

楊順行スポーツライター
「生徒が寒いなかで頑張っている」。スタンドの山口良治さんはコートを着なかった(写真:山田真市/アフロ)

 1975年5月。伏見工(現京都工学院)ラグビー部は、春季京都大会で強豪・花園に112対0という惨敗を喫した。この年から監督に就任していた山口良治さんは、日ごろのしらけたポーズをかなぐり捨て、「悔しいです!」と本心をさらけ出す生徒たちの傷口に、あえて塩を塗った。 

「負けたらだれでも悔しいんや。悔しいままで、みじめに負けたままですますんか? どないすんのや!」

「勝ちたいです!」

「どこにや!」

「花園に、勝ちたいです!」

「いま112点差で負けたチームに勝とう思ったら、たいへんな苦労せんと勝てやせんぞ。おまえらみたいなちゃらんぽらんなヤツらが、そんな辛抱できるのか!」

「どない辛抱しても、勝ちたいです」……。

 生徒を乱暴に叱咤しながらも、山口さんはうれしかったという。初めて腹の底からホンネを見せてくれたからだ。この気持ちがあればできんことはない。よし、この子らを、絶対強くしてみせる……伏見工の歴史が始まるのは、この黒星からだ。

「それにしても、人間の涙いうのはすごいですよ。涙を媒介にして同じ感動を共感しあうことが、とてつもないエネルギーになるんですね。僕は初めて伏工のグラウンドに立ったとき、ゴールもなにもない荒涼としたグラウンドに、お客さんでいっぱいのスタンドがだぶって見えたんです。そこで胴上げされながら泣いている自分の姿も見えました」

 平尾誠二らがいて、花園での優勝が実現するのは112対0の負けから4年半後、80年度のことだった。

若い情熱は燃費が高い

 山口さんは、こう考えている。ラグビーに限らず、あらゆるスポーツの魅力というのは、人間をひたむきにさせてくれるところにある。まして高校生という時期は、そのひたむきな情熱の燃費が素晴らしく高い。その時期に、すねたふりをして、斜に構えていてはもったいないじゃないか……。

「テンションの高まりは、カッコ悪いこととも恥ずかしいことともちゃう。大八木(淳史)も平尾も、一見クールやけどひたむきになれる感受性の鋭敏さは図抜けていました。ラグビーは、チームスポーツです。思いやりの気持ちがなければ、チームが機能しない。野球ならキャッチボールで、捕れない相手に強いタマを放るんじゃなく、相手が捕れるタマを投げてあげる気持ちですね。それがゆくゆくは自分にはねかえってくる。相手を思いやれなければ、相手も自分を思いやってくれない。つまり思いやりとは、自分と対峙することの始まりです。

 長距離を走るとき、足の速い子も、遅い子もいます。そうすると走り終えた子が、自分もエラいのにですよ、遅い子のところに戻っていって励ましながらいっしょに走ってやる。そういうふうに、生徒の心が耕されていくのを見ると、ラグビーはいいなぁと思います」

 このインタビューをした97年、1月には、沈没したロシア船から大量の重油が日本海に流出した。山口さんの故郷・福井県では、とりわけその影響が深刻だった。山口さんはすぐさま、部員を連れてボランティアに駆けつけた。

「寒いです。凍てつきます。回収した重油は臭くて、重くて、汚い。でもキャプテンが"気合い入れるぞ!"と号令をかければ100本、200本、ドラム缶がみるみる並んでいきます。ジュース1本で、4時間ぶっ通し……すごいぞ、おまえらすごいぞ、こいつらは負けないぞと、胸がいっぱいでした」

“信は力なり”

 山口さんは、“信は力なり”という言葉が好きだ。たとえば80年度の花園初優勝のとき。ハーフタイムでは、なにか指示すべきかと考えた。だが、選手たちの表情は“わかってます”と告げており、よし、コイツらにまかせよう……と、細かい指示は出さなかった。そして試合は、3対3の同点のまま両校優勝か……というノーサイド寸前に伏見工がトライを決め、劇的な初優勝を飾ことになる。

「あれが、“信は力”ですね。信というのは、信頼してまかせるという意味でもあるんです。やることはすべてやって、あとはおまえらにまかせた、と試合に送り出す。実際に試合が始まればやっぱり不安にもなるんですが、なにいうてんねん、あいつらにまかせておけば大丈夫や! と、負の心を抑えつける。2回目の優勝(92年度)のときも、大病のあとだからなおさら、“信は力なり”を痛感しました。

 伏工のグラウンドによその監督さんが来られると、みんなびっくりするんです。全国優勝しているチームやから、よっぽどすごい設備があるのかと思うと、ほかのクラブと共同のグラウンドでしょう。特別なことはなにもなく、私が自分で立てたゴールぐらいです。これを見て"ああ、伏見工いうても同じ高校生や"と思ってくれればいい。112対0のときの伏工みたいに、"どんなに苦労しても伏工に勝ちたいです!"と、我々に大敗したチームが泣き叫んでくれればいい。そういうチームが力をつけてくることが本当にあるから、やっぱりラグビーは素晴らしいと思うんですよ」

 こう話しながら山口さんは、泣き虫先生らしく、目を潤ませている。そういえば……別の日にはこんな話も聞いた。

「一番つらいのは、送別会のときです。3年間、喜怒哀楽を共有してきた生徒たちを送り出すんですから……」

 門出に、と十八番の小林旭の曲を歌い始めても、いつも1小節で涙がつまり、湿っぽくなってはなむけにならない。そして、一人ひとりと最後の握手をかわす。おめでとう、よう頑張ったな、ありがとう……握り返してくるその手の感触に、

「入ってきたときには、あんなに小さくてかわいい子だったのが、こんなたくましくなりよって……」

“泣き虫先生”は、ここでまた感極まるのである。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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