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高橋慶彦の連続試合安打記録は、40年以上破られていない(その1)

楊順行スポーツライター
ロッテ・コーチ時代の高橋慶彦(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

 始まりは1979年、6月6日の中日戦だった。前年にショートの定位置を獲得し、3割をマークした広島・高橋慶彦。だが、この年は波に乗れない。前日まで16打席ヒットが出ず、延長に回ってきた打席では代打を送られたほどだった。それでもこの中日戦の第3打席で、高橋三千丈から19打席ぶりのヒットを記録し、ヒットパレードが始まった。17日にはこの年に巨人に入団したルーキー・江川卓からの2安打があり、7月3日には大洋(現横浜DeNA)・野村収から、あわやサイクル……の3安打。10試合、15試合、20試合……と、連続試合安打が延びる、延びる。そのほとんどが、左打席で記録された。

 東京の城西高3年の夏に甲子園に出場。大学で野球を続けようか……と思っていた矢先、広島から誘われた。体が小さく、高校までの投手ではなく野手として、といわれても、そりゃそうだとこだわりはなかった。むしろ”大学でやるのも、プロでやるのも同じ。それなら、やってみよう“と、軽い気持ちで飛び込んだのが75年だ。当時のコーチで、のちに監督となる古葉竹識から「ヨシヒコ、プロは足だけでもメシが食えるぞ」といわたように、俊足が売り物。2年目にはウエスタン・リーグで盗塁王になり、3年目には一軍で58試合に出場し、3割近い打率を記録し、やはり古葉のアドバイスでスイッチヒッターに転向するのが78年だ。

「スイングの数は、ハンパじゃなかったですね。右打ちでさえやっとモノになりつつある段階ですから、左で打つには少なくとも、それまでの生涯右で振ったのと同じ数だけ左で振らなくちゃいけない計算でしょ(笑)。とにかくキャンプから振って振って、朝起きたときには両手がバットを握ったままのかたちだったりしました」

 と当時を回想する。結局78年シーズンには、打率.302を記録。スイッチヒッターとしては、日本人で初めての3割だった。守備位置はショート。オールドファンにとってはヨシヒコといえばショートだろうが、本人曰く、「ショートは、1年目で失格になっているんです」。こういうことらしい。

もともとショート失格だったのだ

「とにかく、ヘタクソだったから(笑)。なにしろ、高校とは野球のスピードがまるで違うからゴロはトンネル、フライは落球……。だから2年目には、センターを守りました。ただ当時の広島は、三村(敏之)さんが衰えてきて、古葉さんが僕をショートに戻そうと目をつけたんです。ほかのコーチは、全員反対だったらしいですよ。実際ショートを守った78年、エラー21個はリーグトップです。ただ古葉さんは、僕の性格をよく知っていてね。試合終盤で守備固めが必要な場面でも、代えない。僕はそういう場面から逃げ出したいし、おそらくファンも、”ヨシヒコを代えろ!“と思っていたでしょうが、古葉さんは頑固でした。そうなると、こっちもハラをくくるしかないですよね」

 古葉が意図したのは、場数を踏み、失敗から学ぶことだった。たとえばこの78年、高橋の売り物である盗塁にしても、35回試みたうち、15回しか成功していない。アウトがなんと20回だ。捕手から見たら、盗塁阻止率は4割あれば驚異的である。逆に走る側からは、成功率が5割以下というのは、野球の損得勘定としてありえない。それでも古葉監督は走らせた。おそるおそるベンチをのぞき込む高橋に、”行け!“と、アゴで指示。チームにとって痛いアウトを積み重ねながら、そこから覚えることは多かった。現に高橋は翌79年、初めての盗塁王を獲得している。

 そうそう、話を79年の連続試合安打に戻すと……6月6日から積み重ねた数字が20に達すると、マスコミも注目した。なにしろ、1カ月以上ヒットが続いているのだ。当時の日本記録は、長池徳二(71年・阪急)の32。そこにはまだ気が早いが、25まで延びれば当時の歴代8位タイ(現在は9位タイ)で、さらに1試合ごとに順位が上がっていくのだ。21試合目、ヤクルト・鈴木康二朗から1打席目にヒット。22試合目、前年10打数2安打と苦手にしていた新浦壽夫(巨人)から3打席目、三塁打。23試合目、加藤初(巨人)から3打席目、二塁打。24試合目、藤城和明(巨人)から3打席目、ホームラン……。

 加藤初といえば、「これは記憶が定かではないんですが」と高橋はいう。少しずつ、左打席の練習もしていた3年目。古葉監督は高橋を代打に指名し、「どっちで打つ?」とたずねた。「左で行きます」。加藤初の初球はカーブ。2球目のカーブも外れたあとのストレートに反応すると、結果はショートのエラーで出塁だ。それはともかく、バットに当たったこの打席を妙に覚えているという。

 もし、である。加藤初の入りのカーブ2球がストライクで、追い込まれていたとしたら……当時半人前以下の左打席では、軽くひねられていたのではないか。やっぱり、左はダメか……と、転向をあきらめかねない。曲がりなりにもバットに当たったことが、球運の機微かもしれない。その加藤初からのヒットもあり、25試合目は阪神との対戦。先発は、この年に巨人に入団した江川卓との交換で、阪神に移籍した小林繁だった。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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