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江川卓がいたから誕生した若大将・原辰徳 その2

楊順行スポーツライター
1975年、高知とのセンバツ決勝で原辰徳は、甲子園初ホームラン(写真:岡沢克郎/アフロ)

 あえていうなら、1973年夏の甲子園で江川卓と対面したことが、原辰徳を東海大相模に進学させ、ひいていえば父・貢との親子鷹も、3年間にわたるタツノリ現象をも実現させたといえる。

 だが……「競争相手と6対4では認めない。7対3の力の差があって、初めてレギュラーにする」という父の言葉以前に、相模の練習は厳しかった。中学時代、辰徳はピッチャーだったから、内野守備はほぼ初めての経験。原“監督”のノックの雨、アラレに立ち尽くしながら、徹底して基本をたたき込まれた。イヤというほどキャッチボールを繰り返したのは、甲子園で発生するエラーの7割は送球ミス、という持論からだ。打撃練習は、74年夏からは金属バットが導入されるというのに、あえて芯の小さい竹バット。芯を外すととてつもなく手が痛いから、バッティングを体で覚えられるというわけだ。

スポーツ紙が「神奈川に親子鷹」

「入学したころは、練習についていくだけで精一杯。とくにノックはイヤでしたね。ヘタクソだし、すぐに罵声が飛んでくるし、本数は少なくても緊張感がものすごいんです。オヤジの気迫に負けない気迫が要求される。ただ僕は、スローイングには自信を持っていました。だから捕球さえすればなんとかなる、という思いで、捕ることに集中できたものです。

 それでも父は、厳しくはあってもひじょうに先進的な考えを持っていました。あの当時ならふつうは御法度ですが、練習中の水分補給はOK。しかも、熱中症防止のためにヤカンのわきに塩を置き、それをなめさせていました。ほかにも、肩を冷やすといわれていた水泳もフリーで、もしそれで痛めるような肩なら、なにをやっても同じということでしょう」

 原自身は、「甲子園に行けるなら、2年でレギュラーになれば御の字」と思っていたが、厳しい指導は天性を研磨し、「気がついたら」サードの定位置を獲得。つまり、入学から3、4カ月で、上級生に7対3の力の差をつけたのを父が認めたということだ。74年、夏の地方大会が始まるころには、「神奈川に親子鷹」という記事がスポーツ紙をにぎわし、2羽の鷹はその夏に羽ばたくことになる。神奈川大会では武相、準決勝で横浜商という強敵を撃破し、決勝で対戦したのが、前年のセンバツ優勝の横浜だ。下馬評では、横浜有利。優勝投手の永川英植(元ヤクルト)が健在なのに対し、相模は原をはじめ村中秀人、津末英明と1年生が3人、2年生も4人ベンチ入りしている若いチームなのだ。だが若い力は、4対1と横浜を圧倒。相模が、夏4回目の甲子園出場を決めた。

 そして……3年間にわたる“原辰徳”という現象は、74年8月12日に始まった。茨城・土浦日大との対戦。マウンド上には永川、土屋正勝(銚子商・元中日ほか)と並んでビッグスリーと称された工藤一彦(元阪神)がいた。開会式では「きちんとかぶっている帽子が浮いているような感じ」で気持ちが上ずった原だが、いざ試合になると「緊張はさらさらなかったですね」。

 初打席は2回裏だ。工藤の速球は重いが、神奈川の決勝で永川、練習試合で土屋と対戦した目は、それほど驚くことはなかった。この年から採用された金属バットが金属音を残し、打球がセンター前に。この夏からつごう4回甲子園に出場し、足かけ3年注目され続ける原だが、初打席がヒットというのは、よほど甲子園に気に入られたのだろう。たとえば、5季連続出場している清原和博(PL学園・元西武ほか)が1年夏、初めてヒットを打ったのは3試合目、9打席目だった。そして6回の辰徳は、1死二、三塁からの第3打席で先制タイムリーも放っている。

 ただ……試合は土浦が逆転し、相模の攻撃も9回裏、2死走者なし。魔術師・三原脩は「野球は筋書きのないドラマ」というが、打席には九番・鈴木富雄で、失礼ながら工藤の力量と比較すれば、勝敗の帰趨は見えたようなもの。この鈴木はヒットでつなぐのだが、それにしても相模の土俵際には変わりはない。辰徳はこのとき、父の出した「背すじの震えるような」サインを、鮮明に覚えているという。

「初球だったかな。スチールのサインなんです。工藤さんから長打は期待できませんし、鈴木さんは確かに俊足。しかしアウトなら試合終了で、批判は免れないでしょう。そこでスチールかぁ……のちに親父は、"そのために練習してきたんじゃないか"とさらりといいましたが、すごみを感じるサインでしたね」

 ヘッドスライディングで二盗に成功した鈴木は、一番・杉山繁俊のヒットで生還し、相模が瀬戸際から土俵中央まで押し返すことになる。そして相模は、10回から登板した村中が好投し、16回にはさすがに疲労の見えた工藤から村中がツーベースを放ち、園田良彦がサヨナラ打。3対2、3時間27分の激闘だった。辰徳は、この試合で6打数2安打。親子鷹という話題性、1年生というフレッシュさ、そして都会的なルックスと笑顔で、1試合にして全国の人気者となった。

定岡正二からも2打点し名勝負を

 2回戦を突破した相模は、定岡正二(元巨人)がエースの鹿児島実と準々決勝で対戦した。「相手は1年生。さすがに、打たれないだろう」と見た定岡から原は3安打2打点し、チームはまたも9回2死から追いつく執念を見せ、ここでも延長15回の名勝負を演じた。敗れはしたが、ドラマチックな試合の連続と原の存在がファンを引きつけ、鹿児島実戦では、NHKのテレビ視聴率が10パーセントから34パーセントにはね上がった。延長戦はナイトゲームとなり、やむなく途中で打ち切ったが抗議が殺到し、NHKは急きょ中継を再開した経緯がある。これが、現在行われているEテレへのリレー中継につながっていくわけだ。

“原辰徳”現象は、さらにヒートアップする。75年センバツで相模が準優勝すると、女性週刊誌はこぞって原をアイドル扱いし、試合会場には中高生が殺到。神奈川県大会では、保土ヶ谷球場(1万5000人収容)で予定されていた相模の試合を、川崎球場(3万5000人収容)に変更したほどだ。ファンレターは段ボール箱単位。全国制覇こそなかったものの、惜敗する姿がむしろファン心理をくすぐり、原はその間、白い歯とさわやかな笑顔を見せ続けた。

「野球をしているだけなのにどうして騒がれるんだ、ほっといてくれと思ったこともありましたよ。ちょっと出歩くと、“原君だ!”と人がきができるし、人を避けた時期もありました。でも、僕があこがれていた江川さんも、周囲が放っておかなかったじゃないですか。だんだん、自分がそういう立場になったのか、と思えるようになりました」

 76年夏は、小山(栃木)に0対1で負けて高校最後の夏を終えた。巡り合わせというものだろう、原は最後の打者だった。

「サードゴロで終わり、挨拶して引き上げるときに涙が出てきました。でもねぇ……悔し涙じゃないんです。1年からレギュラーでやってきて、世間がずっと“相模の原”と騒ぐなか、4回も甲子園に出られたという達成感、終わったという開放感かもしれません」

 戦後、1年の夏から3年続けて甲子園に出て、全試合に出場した選手は清原ら複数人いるが、全試合にヒットを放ったのはおそらく、このときの原が初めて(2002年には森岡良介[明徳義塾・元中日ほか]が達成)。8試合で37打数15安打8打点、甲子園も原の笑顔がお気に入りだった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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