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[高校野球]ヨココウとサガミ。神奈川の盟主はどっちだ? 

楊順行スポーツライター
神奈川の両雄、直近の全国制覇は2015年夏の東海大相模(写真:岡沢克郎/アフロ)

 横浜高校。甲子園通算58勝29敗(優勝5回・1973春、80夏、98春夏、2006春)。

 東海大相模高校。甲子園通算42勝17敗(優勝4回・1970夏、2000春、11春、15夏)。

 全国優勝4回以上のチームが複数あるのはほかに大阪と愛知だけで、つまり両校は、屈指の野球強豪県・神奈川における両横綱といえる。

1970年代から続くライバル関係

 福岡の三池工を率いて65年の夏を制した原貢が、創設間もない相模の監督に招へいされたのは66年。69年の夏には早くも初出場を果たすと、翌70年はセンバツ初出場から夏にはイッキに全国制覇を遂げた。渡辺元智(当時は元)が横浜の監督に就任したのはその2年前、68年の秋だった。同校OBで、65年からコーチを務めていた。その間66年夏には、両校が夏の神奈川大会で初めて対戦。このときは横浜が、原監督就任間もない相模を15対0で圧倒している。以来、両者が夏の神奈川大会で対戦したのは計21回。横浜が13勝とリードしているが、こと決勝に限れば相模が4勝3敗と一歩上回る。

 渡辺が初めて夏の采配を振った69年、両校はいきなり決勝で対戦し、相模が2対0で快勝。初の甲子園をたぐり寄せたのがこのときだ。原より9歳下の渡辺は、当時25歳の青年監督。

「東海大相模というよりも、原さんを強く意識していました。"打倒・原貢"ですよ」

 のちになってそう振り返ったのは、若き日のそうした屈辱が原点にあるに違いない。なにしろ横浜は、原が相模の監督を務める間、夏に辛酸をなめ続けたのだ。72年は準々決勝で敗れ、エース・永川英植(元ヤクルト)でセンバツ初出場優勝を飾った73年は、相模と当たる前の準々決勝で桐蔭学園に敗退。永川が3年になった翌74年、横浜は2年続けてセンバツに出場し、夏は原辰徳(現巨人監督)が入学した相模との対戦が注目された。事実、勝ち上がった両者は決勝で対戦。2度目となる夏の決勝対決で、永川は4安打と好投したがバックの4失策もあり、横浜はまたも1対4で敗れた。翌75年も3回戦で相模に敗戦……と、4連敗だ。結局横浜は、相模に辰徳が在学している間は一度も甲子園に出られず、逆に相模はその3年間で夏3年連続を含む4回の甲子園に出場し、75年センバツでは準優勝した。

 ただ77年、辰徳の進学とともに貢が東海大の監督となると、その夏こそ甲子園に出場したものの、今度は相模に雌伏の期間が訪れる。78年には、1年生の愛甲猛(元ロッテほか)をエースに、横浜が夏の甲子園に出場。渡辺監督にとってはこれが初めての「夏」で、さらに愛甲が3年になった80年夏には、荒木大輔(元ヤクルトなど)のいた早稲田実(東東京)を決勝で破り、夏を初制覇。この後は81年夏、85年春、89年夏と、横浜がコンスタントに出場を積み重ねた。

振り逃げ3ランも……

 相模が盛り返すのは平成に入ってからだ。88年には、原辰徳の同期で、東海大からプリンスホテルを経た村中秀人監督(現東海大甲府)が就任すると、チーム15年ぶりの甲子園だった92年センバツでは、吉田道(元近鉄)をエースに準優勝。2000年には、門馬敬治監督のもとで、センバツ初優勝を果たした。同校OBの門馬監督、現役時の甲子園出場はない。東海大を経て母校のコーチとなったのが96年で、監督就任は99年だから、監督としては実質丸1年でのセンバツ制覇だった。

 だが……夏はなかなか神奈川で勝てない。門馬監督自身が3年だった87年夏は横浜商に敗れるなど、決勝でなかなか勝てず、夏の甲子園は77年からずっと遠ざかったままだ。一方の横浜は90年代に3回、夏の甲子園に出場し、松坂大輔(現西武)のいた98年には、春夏連覇の偉業さえ達成している。門馬監督はそのころを、こう振り返った。

「神奈川にはたくさんの熱い指導者がいらっしゃいますが、僕の中では"打倒・横浜"です。つねに神奈川をリードし、時代を築いてきた学校ですし、渡辺先生(元監督)、小倉(清一郎・元コーチ)さんのつくったチームに勝ちたい思いが強かった」

 ライバルの構図がよりきわだったのは、05年秋〜06年夏だろう。有力校ひしめく神奈川では稀有なことに、両者はなんと3季連続で決勝で対戦するのだ。05年秋は5対0で横浜、その横浜は06年のセンバツで優勝したが、直後の春は9対7で相模、夏は15対7で横浜が勝っている。このちきまで、夏の直接対決では横浜が8連勝。門馬監督にとって、つねに横浜の壁が立ちはだかっていたわけだ。

 その相模が、ついに重い扉をこじ開けたのは10年の夏。一二三慎太(元阪神)をエースに、決勝で横浜を9対3と撃破。夏は43年ぶりの出場で準優勝し、翌11年、2度目のセンバツ制覇に結びつけた。そして……15年の神奈川大会決勝では、相模が9対0で横浜を降した。その夏をもって勇退すると公言していた横浜・渡辺監督にとって、最後の試合が好敵手との一戦というのは、野球の神様もなかなかイキなことをする。そして相模は甲子園本番でも、小笠原慎之介(現中日)らの投手陣とアグレッシブ・ベースボールで、45年ぶりに夏を制覇している。

 ちなみに……両校は07年にも準決勝で対戦していた。相模が4回表に3点を先制し、なおも2死一、三塁で、打者の菅野智之(巨人)は2ストライク2ボールからハーフスイング。球審は、一塁塁審に確認したうえで、第3ストライクを宣告した。横浜ナインはこれを、「打者アウト」と勘違いし、全員がベンチに引き揚げる。対して菅野は、「走れ!」という指示で一塁に走り出し、結局2人いた塁上の走者と菅野の3人の走者が本塁まで到達。第3ストライクの投球がワンバウンドだったにもかかわらず、横浜の捕手が菅野に触球せず、一塁にも送球しなかったことが、この振り逃げ3ランを招いた。横浜は終盤反撃したが、結果的に相模が6対4。強豪校でも、そんなボーンヘッドがあるんですねぇ。

 この夏の神奈川独自大会、勝ち上がれば、両者は準決勝で激突する。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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