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[高校野球]あの夏の記憶/決勝の9回2死から……日本文理、魂の19分 その2

楊順行スポーツライター
伊藤直輝はその後東北福祉大、ヤマハで野球を続け、いまはヤマハのマネージャー(写真:岡沢克郎/アフロ)

 2009年夏、日本文理の快進撃で目立ったのは打線だが、エース・伊藤直輝の好投も大きかった。新潟大会5試合では、28回を33三振、5失点。140キロのストレートとスライダーのキレで、ほとんど危なげがなかった。甲子園にきても、決勝までの4試合を一人で投げ抜いている。ことに、県岐阜商との準決勝だ。左打者へのチェンジアップが有効で、11三振を奪って1失点と、会心の完投だ。とはいえこの伊藤、実は一度はピッチャー失格を宣告された身だったのだ。

 前年の秋の北信越大会を制した日本文理は、10地区のチャンピオンが集う明治神宮大会にコマを進めた。だが、鵡川(北海道)を相手に初戦で大敗。大井道夫監督が、「何回いっても、ボールが高いまま」と業を煮やした伊藤の炎上によるものだ。たび重なる背信に大井監督は、「もともとバッティングがいいんだから、打者に専念しろ」と、伊藤にピッチャー失格を通告した。だが翌日、「どうしても、ピッチャーをやらせてください」と半泣きの伊藤が直訴してきた。大井監督はあえて、もう一度突き放す。サイドハンドで投げてみたらどうだ? 何日か試してみたが、しっくりこない。伊藤は、再度「上から投げさせてください」。大井監督も、その表情から伊藤の本気度を認め、やっとピッチャー復帰を許された。伊藤はいう。

「神宮大会は、自分にとっては野球人生初めての全国大会でした。そこで、実力の差を痛感した。このままじゃ通用しない……あれ以後は、練習の内容が濃くなったと思います」

 一見好々爺のようだが、大井監督は老かいだ。野手転向通告は半分本気だが、もう半分は本人の奮起を促すため。もともと、1959年夏の甲子園で準優勝した宇都宮工(栃木)の左腕エース。全国に通じる術を知っているといっていい。その日から、伊藤は変わった。自分が投打ともチームで一番、という自負が強いために、チームメイトを軽んじていたのが、人の話を聞くようになった。走り込みも、率先してやる。下半身が安定すれば、課題だった低めへの制球も徐々に克服されていく。OBの海津勇太に教わったチェンジアップは、秋時点では制球が定まらずに封印していたが、落差も精度も増した。それが、夏の甲子園では大きな武器になっている。

秘伝・梅エキスで体調管理

 この夏の文理には、梅のエキスという体調維持の秘密兵器があった。大井監督の高校時代、「母が手作りしてくれた梅エキスを、試合中になめていたんだよね」。似たようなものを、新潟市内のデパートで見つけて甲子園のベンチに置き、「これをなめれば勝てる」と選手に暗示をかけた。2試合目で空になると、「梅エキス、ないんですか?」とナインに好評。大阪市内をかけずり回って探し出して補充し、以来ずっとベンチに置いている。ただ、6日間で4試合目となる中京大中京(愛知)との決勝の朝、さすがに伊藤の体は重かった。ただ、ここまで一人でマウンドを守ってきた。決勝もむろん、最後まで投げるつもりだし、中村大地主将も「どんなに打たれても、最後まで伊藤で行きましょう」。それを聞き、大井監督は腹をくくった。

 腹をくくりはしたのだが、「ユニフォームの下で、筋肉がもりもりしているのがわかる。まるで大学生みたいな」(大井監督)中京打線の迫力はモノが違った。「抑えられる打者がいないような打線」(高橋隼之介)で、5回まではなんとか2点にとどめていたものの、6回、わずかな守備のほころびから6失点している。それでも「頼むから、最後まで投げさせてくれ」と願いながら、伊藤は8回まで踏ん張った。そして文理の、最後の攻撃というわけだ。

 9回表、2死走者なしから4点差とし、イトウコールを受けながら、打席にはその伊藤が入った。3球目のストレートを叩くと打球は三遊間を破り、二者が還る。8対10。塁上の伊藤には、鳴りやまない自分への声援が心地いい。続く代打の石塚雅俊が、カーブを真っ芯でとらえ、さらに一人還ってついに1点差だ。しかも、一打逆転のチャンス……。伊藤コールの大音量が、甲子園の魔物の目を覚ましたのかもしれない。なにしろ代打に起用された「石塚は、カーブがまったく打てない」(大井監督)のだ。だから2死一、二塁の場面では、代打には別の選手を考えていた。ところが、ベンチの3年生が「石塚を使ってください」と口をそろえる。

「そんなこといったっておめぇ、石塚は打ったことがねぇだろ?」

 だが石塚本人は「絶対打ちます」。それなら行け、と根負けして送り出したのだ。それがものの見事に初球、高めに抜けたカーブをレフトにはじき返すとは。「まったく打てない」はずの、カーブである。大井監督は、「初球、なにがきても打つ!」と決めていた高校生の不思議な集中力に、いまさらながらに脱帽した。

打て、ナオキ!

 そして10人目の打者は、この回先頭打者として凡退している若林尚希である。同じナオキという名前の伊藤とは、小学生時代からバッテリーを組んできた。だが、脚光を浴びるのはいつも伊藤だし、逆に伊藤が打たれると大井監督は、「なんであんな配球をした?」とつらく当たる。目をうるませながらも、若林はひとつも言い訳はしない。伊藤はそういう姿をずっと見てきたから、オレさえしっかり投げればいいんだ、と誓った。そういう、間柄だ。打て、ナオキ。伊藤は、三塁塁上から打席の若林に念を送る。

 そして……2球目。ストレートに反応した若林のバットが快音を残す。が、身を乗り出す一瞬もなく、打球は中京大中京の三塁手・河合完治のグラブに直接吸い込まれた。2、3歩走り出して、ひざまずく若林。三塁走者として、ゲームセットの瞬間を至近距離で実感した伊藤が、友のもとに駆け寄った。9対10。9回2死から19分、文理の魂の攻撃は、あと1点届かなかった。

 中京大中京・大藤敏行監督は、薄氷の優勝に胸をなで下ろしながら、激しく自問自答していた。9回、堂林翔太を再登板させたのは、私情ではなかったか。一度は突っぱねたものの、再度の申し出に首をタテに振ったが、森本隼平の続投が正解ではないのか。監督が勝負に私情をはさんでいいのか……。

「高校野球だもの、いいんじゃない?」

 文理・大井監督はそういう。

「堂林君で勝ってきたチームだし、最後は彼で、という温情でしょう。もし逆の立場だったら、オレも伊藤を投げさせるもん。野球は筋書きのないドラマというけど、9回で6点差なら筋書きはわかるよ。2死からの5点にしても、石塚が初球から振ったのにしても、確率的にありえないようなドラマが起きるのは……」

 そして、こう締めくくるのだ。

「甲子園だからだよ」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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