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平成の高校野球10大ニュース その6 2004〜06年/駒苫黄金時代と早実と(後編)

楊順行スポーツライター
2006年夏優勝の早実・斎藤佑樹がハンカチ王子と呼ばれたこと、覚えていますか(写真:岡沢克郎/アフロ)

 ページターナー。ページをめくる手が止まらないほど、おもしろい本をいう。ただ、イッキ読みしたくても、残りページが減っていくのがもったいない気分になる。2006年、第88回全国高校野球選手権決勝は、まさに“ページターナー”だった。どんな結末なのかを早く見届けたい、だけど1球投げるごとに、確実にゲームセットに近づくのも寂しい……。

 第1回大会から出場し、このときが創部101年目の早稲田実(西東京)。王貞治(元巨人)をエースに1957年のセンバツで優勝し、大輔ブームを起こした荒木大輔(元横浜など)の80年夏には準優勝の、高校野球の老舗だ。一方64年の創部で、04年の夏、甲子園初勝利から一気に初優勝した駒大苫小牧(南北海道)。翌05年夏には、57年ぶりの夏連覇という偉業を達成した。早実は斎藤佑樹(現日本ハム)、駒苫は田中将大(現ヤンキース)とどちらも好投手を擁し、頂点まであと一歩にたどり着いている。

 両者は前年秋の神宮大会の準決勝で対戦し、駒苫が5対3で勝っていた。斎藤の5失点に対し、途中から登板した田中は、「スライダーが消えた」(早実・桧垣浩次朗一塁手)と、打者19人から13三振を奪う怪物ぶりで、味方の逆転を呼び込んだ。だが「あの負けがあったから、駒苫を目標に成長させてもらった」と、早実の和泉実監督。春のセンバツでは、優勝した横浜(神奈川)に敗れてベスト8にとどまったが、この夏は、その横浜を一蹴した大阪桐蔭に11対2と圧勝。斎藤は、1学年下の中田翔(現日本ハム)を4打数3三振と完璧に牛耳り、「僕たちがセンバツで負けたのが横浜。それを倒した大阪桐蔭に勝ったからには、駒苫の3連覇を阻止するのは自分たちしかいないと思った」。

駒苫の3連覇を阻止するのは自分たち

 春からの成長は明らかだ。センバツでスタミナ不足を痛感し、甲子園から戻るとグラウンド裏の山道を走り込み、スクワットで汗を流して下半身強化を徹底。右足に重心を乗せるフォーム改造も実り、球速は4キロアップの最速149キロとなった。この夏の甲子園、初戦こそ一時ライトのポジションについたものの、救援が1死も取れずにマウンドに戻ったから、斎藤は準決勝までの5試合を実質すべて完投と、もうスタミナに不安はない。ストレートにスライダー、勝負どころではフォーク、そしてなにより制球と、沈着冷静なマウンドさばきが光り、45回で49個の三振を奪い、防御率1・00である。

 対して田中には05年夏の優勝以降、山も谷もあった。甲子園大会直後に元部長の暴力行為が発覚して練習を自粛。それでも秋の北海道を制し、優勝した神宮大会でも28回3分の2を投げて47三振は、97年の松坂大輔(横浜・現中日)の27回31三振をはるかにしのぐペースだ。センバツでは優勝候補の最右翼……のはずが、夏春連覇のかかったそのセンバツは、卒業する3年生の飲酒が発覚し、出場辞退の憂き目に遭う。夏も、73年ぶりの3連覇への挑戦権は得たものの、甲子園入り後に胃腸炎を発症して田中は本調子を欠き、香田誉士史監督は少しでも負担を減らそうとリリーフ中心の起用を決断した。だから先発完投は2回戦、準々決勝のみ。それでも本人「途中から投げるほうが気合いが入る」と、序盤からのロングリリーフもいとわない。そして、北の王者はさすがに強かった。3回戦から準決勝まで、3試合続けての逆転勝ち。青森山田戦では最大6点差、東洋大姫路(兵庫)戦では4点差の逆境を終盤にはねかえしている。

 決勝は8月20日、13時1分にプレーボール。駒苫の先発は準決勝同様2年生の菊地翔太だったが、3回1死一、二塁のピンチに田中が登板して役者がそろい、ここからが本番だ。スマートに、クレバーに、そしてときに熱くアウトを積み重ねる斎藤。やんちゃ坊主そのまま、感情をむき出しにしてピンチを切り抜ける田中。スコアボードに、几帳面にゼロが入っていく。6回まで両チームとも無得点というのは、この試合が初めてだった。

 8回、駒苫が三木悠也の中越え弾で先制すると、その裏の早実も、長打で出た桧垣を四番の後藤貴司が犠飛で返して同点。延長に入ると、その時点で両投手とも「(引き分け)再試合が頭をよぎった」と口をそろえるほどの緊迫だ。好機と危機が交互に起伏する。たとえば11回表駒苫、1死満塁で打席には岡川直樹。香田監督は3球目に、スクイズのサインを送った。斎藤がモーションを起こし、三塁走者の中川竜也がいいスタートを切る。ただ……スタートがよすぎた。右投手の斎藤は、中川を視界のすみに捉え、「スライダーの握りだったので、思い切って叩きつけた」と、瞬時に投じたショートバウンドに岡川のバットが空を切る。中川、憤死。逆に13回裏、田中の暴投から2死三塁のピンチを招くと、駒苫は満塁策を選択して2死満塁。ここで田中は「斎藤より先にマウンドを下りたくない。気持ちだけは切らさず、思い切って腕を振った」と球に気迫を乗せ、この大会2本塁打の船橋悠はセカンドゴロ。最大のピンチを脱する。

試合時間は横浜×PLとまったく同じ

 15回表2死。斎藤は、秋の神宮大会で120メートル弾を浴びた四番・本間篤史に、力の勝負を挑んだ。ストレートを5球続け、うち2球はこの日最速の147キロを記録。「15回で、まだ速くなっているとは……」驚嘆する本間は、フルカウントからの6球目。フォークを空振りして天を仰いだ。その裏、早実。2死一塁から四番・後藤が倒れ、名勝負は1対1のままいったんノーサイドとなった。斎藤の投球内容、15回178球を投げて7安打、13三振、1失点。田中は12回3分の2で165球、7安打、10三振、1失点。8回以外はすべて几帳面にゼロを連ねた極上の投手戦は、関東地区でのNHKの視聴率が29・1パーセントに達した。3時間37分の試合時間は奇しくも、平成屈指の名勝負のひとつ・98年夏の横浜とPL学園の延長17回とまったく同じだった。

 翌日、37年ぶりの決勝引き分け再試合についても簡単にふれる。早実が小刻みに加点し、4対1とリード。駒苫は9回、中沢の2ランで1点差まで追いすがったが、逃げ切った早実が4対3で夏の初優勝を遂げた。前日、高濃度酸素カプセルで疲労を取った斎藤は、「出会ったことのない精神力の強さ」(和泉監督)と、驚くような回復を見せてこの日も完投。4連投、また史上初めて7試合を投げ、総投球数は、948球に達していた。奪った三振78個は歴代2位。その78個目を喫したのが、田中だった。144キロの直球をフルスイングの空振りで、「こういう巡り合わせなのかな」。2日かがりのページターナーを締めくくる、最後の打者となったが、その笑顔は気持ちよかった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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