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若生正廣氏勇退。東北高時代のダルビッシュとの秘話 その4

楊順行スポーツライター
ダルビッシュ有は東北高時代、甲子園に4度出場して2003年夏の準優勝が最高成績(写真:岡沢克郎/アフロ)

 とても印象的な写真がある。

 甲子園のダグアウト前に、銀メダルを首にかけた長身のダルビッシュ有。ダルビッシュの右手を握る若生正廣監督が、一段低いダグアウト内から見上げる先には、泣きじゃくる顔がある。

 2003年。第85回全国高校野球選手権決勝で、東北(宮城)が常総学院(茨城)に2対4で敗れたあとだ。このとき以外はダルビッシュの涙を見たことがなく、だからこそ印象的なのだ。

 06年から福岡・九州国際大付の監督に転じて14年夏まで、その後は埼玉栄で指揮を執った若生氏は振り返る。

「あの涙は、うれしかったよね。高校入学前から次元を超えた怪物と騒がれ、人前では自分を抑えていた有が、ナマな感情を見せてくれた。しかもあのときは、ほぼドクターストップに近い状態で先発を志願しながら負け。上級生に申し訳ない、という責任が涙になって現れたと思うけど、その人間的な成長もうれしかったんです」

 その大会のダルビッシュは、平安(京都・現龍谷大平安)戦で11回を完封という会心のピッチングを見せたものの、ヒザと腰に炎症のきざしがあり、右すねの状態もよくない。続く準々決勝は救援登板で49球、準決勝は登板せずと、ドクターストップに近い状態だったことはすでにふれた。だが、常総との決勝前夜。ダルビッシュはまたも、若生氏を驚かせることになる。

万全じゃなくても、先発を直訴

「有は万全じゃない、先発をだれにしようか……と頭を悩ませていると、有のほうから、"行きます"と先発を直訴してきたんですよ。有はもともと、自分の体の状態を、希望的観測なしで申告してきます。肩が重ければ"重い"、無理そうなら"ダメです"というし、私もそれを尊重してきました。あの決勝の前には、ヒザと腰が炎症を起こしかけていたでしょ。決勝という責任重大な大舞台で、しかも下級生。これまでの有なら、体調を理由に"ちょっと無理ですね"と、先発回避を申し出てもおかしくないんです。ところが"行きます"だから、びっくりしたよね。

 あとで聞いたら、準決勝でリリーフして好投した真壁(賢守)に、"今日はナイスピッチング。明日はオレが投げるよ"と、館内電話で宣言していたらしいんだよね。負けたときの責任の大きさも、無理したら体にどんなダメージがあるかわからないのに……クールで、一見マイペースに見えるけど、あれはあれで内面に熱いものを持っているんだよ」

 決断は、ダルビッシュの先発。ただしSNS全盛のいまだったら、袋だたきにされかねないが……。

 全国制覇は、東北勢の悲願だった。東北6県のチームは、そこまで5回、甲子園の決勝に進んでいるが、いずれも敗れているのだ。初めて決勝に進んだ東北高校がその悲願を果たすのか。先手は東北が取った。2回に2点。だが常総は4回、本調子じゃないダルビッシュから、坂克彦(元阪神など)のヒットを足がかりに3点。8回にはダルビッシュの暴投などから1点を追加した。結局、2対4。だが、若生氏はいまでも「勝てた試合だったね」と悔やむ。

「やらなくてもいい失点もあったし、それと2対3だった7回裏の攻撃ね。2死満塁からウチの四番がいい当たりのライナーを打ったのよ。抜けた、逆転……と思ったら、いるはずのない二塁キャンバス寄りのポジションに、ショートの坂君がいるんだよね。あまりに悔しいから、試合のあとで坂君に聞いてみたんだ。すると、"キャッチャーのサインを見て、飛んできそうな気がしたんです"。いやぁ、これが木内(幸男・当時常総学院監督)マジックかと思ったよ」

涙の1年後は、笑顔で高校野球を終えた

 完投しながら12安打4失点のダルビッシュは、「悔しいです。2点取ってもらって、勝てる試合だったのに、自分のせいで負けた……」と、冒頭シーンの涙を見せるのだけれど、「来年は、だれにもかすらせない球を投げたい」と絞り出した。

 その、翌04年。ダルビッシュはセンバツでは「かすらせない」という宣言どおりノーヒット・ノーランを達成してベスト8と、主役としての存在感を示した。夏は北大津(滋賀)、遊学館(石川)と2試合連続完封。千葉経大付との3回戦も完封寸前だったが、9回2死から雨に手を滑らせた野手の悪送球で延長にもつれると、10回表に勝ち越しを許して敗れている。不運、といってもいい敗戦だった。ただ……10回裏、最後の打者として見逃し三振に倒れたダルビッシュは打席で、どこか満足そうな笑顔を見せている。それはホント、涙で終わった1年前の夏とは比較にならないほどのいい表情だった。

 最後に、若生氏の回想を付け加えておく。

「もしあのころの私がもっと勉強していたら、03年の夏だけじゃなく、04年の春夏も優勝できていたんじゃないか……と思うことがあるんだよね」

 若生氏はのち、九州国際大付を率いて11年春にも準優勝しているが、ダルビッシュ同様、頂点には手が届かないまま高校野球を終えた。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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