僕はサラリーマンじゃない(イチロー) アスリートの名言集 2

渡辺元智監督の甲子園通算51勝は歴代4位タイ(写真:岡沢克郎/アフロ)

●僕はサラリーマンじゃないんですよ イチロー

 2004年には、メジャーリーグ最多の262安打を記録し、日本のプロ野球との通算安打数も世界記録。日本では8年連続、アメリカでも04年に首位打者を獲得しているイチローは、日本が生んだ最高のバットマンと言っていい。

 だが1992年にオリックス入りすると、“振り子打法”といわれた独特のフォームが異端視された。入団した1年目のキャンプ。あるコーチが、「オマエの打ち方は邪道だ、オレのいうとおりに打ってみろ……」。まだ1年目のこととあり、最初は素直に従ったが、やがてはこれが自分の特徴と、振り子打法にこだわるようになった。フォームを変えれば一軍に上げてやる、と言われても、その姿勢は変わらない。

 登録名を本名の鈴木一朗からイチローに変えた94年。イチローはシーズン200安打という日本プロ野球史上初の快挙を達成し、その独自のフォームも相まって、一気に時の人となった。当時こんなふうに語っていたものだ。

「僕はサラリーマンじゃない。プロ野球は、自分さえしっかりしていればやっていける世界。会社のように、上手に世渡りしたからって、結果が保証されるわけじゃないんです。まして、コーチの言うとおりにしたところで、翌年はそのコーチがいるかどうかわからないんですから」

●一度登った山でも、次も同じ方法で成功するとは限りません 渡辺元智監督

 高校野球の強豪・横浜高を長年率い、1998年には松坂大輔投手(現中日)らで甲子園を春夏連覇した渡辺元智前監督の言葉。一度、ある山の頂点を極めても、山を下りたら荷物を取り出し、装備を点検し、次の登山に備える。次回への反省点として、装備品や食料は足りていたか、日程やコンディショニングに狂いはなかったか、チームワークは、支援体制は……。入念に振り返っても、新たな山に登るときは、また一からのスタートだ。

 春、センバツ山は頂点にたどり着いた。しかし夏の甲子園という山は、センバツ山とは気候も、条件も、チーム構成もまるで異なる。センバツ山の成功体験によりかかっていては、対応できないような突発事態もあるだろう。一度成功したから、次も同じ方法でいい、と安心してしまうと、進歩は止まってしまう……。史上5校目の春夏連覇達成は、春の優勝に満足することなく、次の険しい登山に周到な準備をしたからこそだった。

●トップに立つために飛び出すのは、だれもが苦しい峠の登りなんですよ 佐藤琢磨

 2017年、日本人として初めてインディ500で優勝を果たしたカーレーサーの佐藤琢磨。F1からインディに転身したが、そもそもカーレーサーになる前、早稲田大時代は自転車競技の選手だった。僕は門外漢だが、高校時代はインターハイ優勝、大学2年全日本学生選手権優勝などがあるから、その世界でも超一流だったのだろう。やがて、モータースポーツの道を選択。ふつう、一流のレーサーになるにはは、子どものころから英才教育が必須とされるが、「無理だと思われていることに挑戦したかった」という佐藤は、それからわずか5年でF1レーサーとなっている。

 この言葉は、自転車競技の駆け引きについて語ったもの。だれもが同じようなスピードの出る下りでは、さほど差はつかない。急勾配を登る苦しい局面でこそ、ほかを引き離すというのだ。やがてたどり着いたF1レーサーの地位。多くが、少年時代から時間をかけてたどり着いた位置に、わずか5年で登るのも、よほどの急勾配だったはずだ。

●逃げるのだけは絶対にダメだ、逃げたらそこまでの人間だから 畑山隆則

 現在タレントの畑山隆則さんは、元WBAスーパーフェザー級の世界チャンピオンである。甲子園を目ざして進んだ高校にもろくに通わず、プロボクサーを目ざして青森から上京。その修業時代には、ボクシングジムに住み込んで新聞配達をしていた。ある雨の日、自転車が倒れて新聞がびしょぬれに。もとがちゃらんぽらんな不良少年だ。また家出してきたボクサー志望者など、ジムでもおざなりな練習しかさせてくれない。一瞬なにもかも放り出して逃げ出したくなった。だが、そこで考える。

 野球もあきらめた。家出もした。そんな自分にとって、ボクシングはたったひとつの取り柄。ここで逃げ出したら、すべてにシッポを巻くことになる。逃げるのだけは絶対にダメだ……。畑山さんは、ぬらしたままの新聞を謝りながら配り終える。その後決意も新たに、きちんと練習させてくれるジムに移り、93年にプロデビュー。97年、初の世界挑戦ははね返されるが、それからちょうど1年後に世界タイトルを獲得している。

●笑われたって気にならないよ。笑い声は空中では聞こえないから ヤン・ボーグレブ

 これは実際に取材したわけじゃなく、書物で読んだ話。ノルディック・スキーのジャンプ競技では、いまはV字のように2枚のスキー板の先端を開いて飛ぶ。だがたとえば1972年、札幌オリンピック70メートル級で1、2、3位を独占した日の丸飛行隊の時代など、2枚の板はそろえて飛ぶのが当たり前だった。

 現在主流のV字ジャンプが生まれたのは、85年のことといわれている。スウェーデンのヤン・ボーグレブという選手は、失敗ジャンプでたまたま板が開いたとき、異常に飛距離が伸びたことに着目。以来、この偶然の産物を技術として確立しようと磨きをかける。だがそのころは、板をそろえて飛ぶのが常識である。板が離れると、採点による飛型点も低くなりがちで、ボーグレブはなかなか思うような結果が残せない。当時は不格好とされたボーグレブの飛び方を、周囲は“カラス”と嘲笑したという。

 それでも、本人は意に介さず。試行錯誤をくり返すうち、徐々に距離を伸ばしやすいV字ジャンプの利点が認められていく。やがては、飛型点の減点もほとんどなくなり、ボーグレブは88~89年のシーズン、5回の優勝を数えた。するとボーグレブを笑った人々も、それを棚に上げ、こぞって“カラス”のような飛び方をするようになったのだとか。