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ギネス級の2日連続無安打無得点。高校野球でも、一大会複数ノーヒット・ノーランがあった

楊順行スポーツライター
高校時代の松坂は、まさに怪物だった(写真:岡沢克郎/アフロ)

春夏の甲子園で、一大会2試合以上のノーヒット・ノーランが記録されたのは1932年夏が最初で、このときはなんと3試合あった。大会を通じて行われたのは21試合だから、よほど投高打低だったのだろう。次が33年春で、さらに39年夏、57年夏と続く。39年の夏は、海草中の嶋清一が準決勝、決勝を連続無安打無得点という、ギネス級の離れ業を演じた。早稲田実の王貞治も、57年夏の達成者としてノッヒッター・リストに名を連ねている。

ノーヒット・ノーラン。野球の原稿を書く人の大部分は、この単語を自分なりの方法で登録しているのではないか。忠実に打ち込むには長くてまだるっこしいので、僕の場合なら”の“一文字で候補に出てくるようにしている。ただ、過去の記録を振り返る場合を除き、自分がその場にいて、この目で見て、快挙に心地よく酔っている間にノーヒット・ノーランと打ち込むことはごくまれだ。

ところがある夏は、幸運なことに、大記録達成の瞬間にその場にいた。それも、2試合も。98年夏のことで、これが"無安打無得点複数達成大会"の5回目になる。

最初は8月11日、大会6日目の第3試合。杉内俊哉(当時鹿児島実、現巨人)が八戸工大一を1四球、打者28人で完封した。スコアブックには、Kのマークが16。内角をえぐる140キロのストレートと、タテに大きく割れるカーブにバットは空を切りっぱなしだった。八戸工大一のエース・立花裕晃は「ボールが消える」と杉内のすごさを評し、山下繁昌監督は「ストレートかカーブか、どっちにも的をしぼれなかった」と脱帽している。

「8回から意識しました。最後まで強気に投げたのがよかったと思う」(杉内)

実は当時、鹿児島県内には強力なライバルがいた。木佐貫洋(元巨人など)。鹿児島実が97年の春から3連敗を喫した、川内のエースだ。そのライバルに勝つために、「ヒットを打たれるならデッドボールのほうがまだいい」と、強気の内角攻めを身につけた杉内の快挙。この日は、杉内が生まれる前に離婚した母・眞美子さんの誕生日、というのがまた泣かせた。

"の"一文字で"ノーヒット・ノーラン"に変換

杉内は、2回戦で松坂大輔(当時横浜、現ソフトバンク)と中盤まで互角の投げ合いをしながら、終盤に攻略されるのだが、今度はその松坂の番だ。8月22日、京都成章との決勝戦。決勝では先述の嶋清一以来となる3四死球のノーヒット・ノーランだ。準々決勝ではPL学園と延長17回の死闘を演じ、松坂が先発を回避した準決勝ではチームが明徳義塾を大逆転で下し、そして決勝はど派手なエンディング。松坂自身、「あの3試合は、見ていた人の記憶に残ってくれるでしょう」というドラマチックな結末だった。

この試合、松坂は実はあまり調子がよくなくて、先頭の沢井芳信に痛烈な三塁ゴロを打たれている。サード・斉藤清憲の好守でアウトにはなったが、

「立ち上がり、いきなりいい当たりをされて目が覚めましたね。ふつうは狙って三振を取りにいったりするんですが、そんな甘いもんじゃないな、と。今日は打たせていこう、と思ったのは、あの試合が初めてじゃないですか」

とはいえ、最後の打者を含めて11三振を奪っているのだから、やはり怪物だったのである。京都成章・奥本保昭監督によると、

「最初の沢井の当たりがよかったから、まさかノーヒット・ノーランとは……。試合が進むにつれて、記録を期待するお客さんの歓声や拍手で、ダグアウトが地響きするんですよ。その息苦しさからは、逃れられんようになる」。

松坂が8回に四球を出し、横浜の野手がマウンドに集まったときには、「ショートの佐藤(勉)が”(ノーヒット・ノーランを)やっちゃえよ"、というんですよ。僕は”あ〜あ、いうなよ。そういう大記録って、口にしたらできないんだよ“」(松坂)。決勝の大詰めとも思えない余裕の会話だ。

甲子園ではこの後、04年のセンバツでダルビッシュ有(当時東北、現レンジャーズ)が記録して以来、ノーヒット・ノーランは達成されていない。出現率からいったら過去最長のブランクで、来年あたりは現場で"の"と打ち込むことがあるかも……。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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