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バドミントン・リオ五輪代表 佐々木翔とは、こんな男 その2

楊順行スポーツライター
五輪内定選手決定記者会見で。左から女子シングルスの山口茜、佐々木翔

沈思。不屈。鋼の体。サムライの形容が似合う佐々木翔は、不器用な人であり、反骨の人である。

前回書いたように、06年の全日本総合で佐々木は、当時高校2年生だった田児賢一に1回戦で敗退した。日本代表選考会ともいえるこの大会での失態で、翌年佐々木は、日本代表から漏れた。となると、国際大会に出場するには、個人として参加するしかない。

だがそこで佐々木は、代表の出場する大会よりグレードは下がるとはいえ、次々に優勝を飾る。ルーマニア、イスラエル、オーストラリア、大阪国際……。さらに、国内の日本ランキングサーキットでも優勝し、選考基準の見直し規定によって、6月には日本代表に復帰する。

だけど、むしろ心外だった。佐々木はいう。

「いったん代表から外したら、年度の途中で戻さないでくれ、という気持ちが強かった。07年といえば、ちょうど(北京)オリンピックレースの年です。そこでたまたま結果が出たので、もしかすると五輪出場が有望かも、という協会内の思惑があったのかもしれません。ですが僕自身は、オリンピックに出ること以前に、周囲を見返したい気持ちが強かった。代表に復帰すると、その反骨心がなまってしまうような気がしたんです」

代表選考には、前年の全日本総合の結果が大きくモノをいうのだが、それとは無関係に強化本部の推薦枠がある。年度の途中で戻すくらいなら、最初からその枠で推薦しておいてくれ……という自負かもしれない。さらにこの07年の全日本総合で佐々木は、どうしても勝てなかった佐藤翔治を決勝で破り、念願の初優勝を飾った。周囲は、見返したのだ。だが07〜08年の五輪レースでは、世界ランキングを28位まで上げたが、北京五輪出場にはあと一歩届いていない。

いずれにしても……高校生の田児に敗れた一戦が、ひとつの大きな転機ではあった。

「田児に負けたとき、“引退するのって、こういうときかな。もう終わりかな”という思いがよぎりました。当時24歳ですが、25〜26歳で引退する選手もめずらしくないですからね。でも、結婚もしていたしこのままじゃ終われない。そこで正月から、渋谷(実・関東一高)先生の紹介で、トレーニングジムに通い始めました。トレーニングにすがっているうちは、バドミントンのことは考えなくてもすむ。そして必死にこなしている間に、体ができあがっていったんです。2、3カ月でスマッシュが速くなったのが自分でもわかりましたし、実際、試合でも勝てるようになった」

あたかも修行僧のように、頭を丸めたのもこのころだ。だが、トレーニングで体重が10キロ増えると、パワーの代償としてスピードとスタミナをわずかに犠牲にする。連覇を目ざした08年の全日本総合で敗れると、可動域を広げて効率的に動くことを目的としたトレーニングにシフトしている。

遊んでいるヤツらより充実した将来を誓う

反骨といえばもうひとつ、関東一高時代。トレーニングとして公園を走っていると、同じ年ごろの高校生たちがたむろしているのに出くわした。なにがおかしいのか、わざとらしい喚声が聞き苦しい。

「ほかにも、たまたま繁華街を通りがかれば、ちゃらちゃらした同年代が遊んでいる。こちらも一番遊びたい時期なのに、毎日汗まみれで走りながら“いま苦しんでいる分、将来、コイツらよりは絶対に充実した生活をしたい”と。バドミントンで生きていく、という気持ちが固まったのが高校時代でした。これも反骨ですね」

田児に敗れた翌07年には、地元・秋田の国体で、北都銀行を初優勝に導くと、それを置きみやげに佐々木は09年、強豪・トナミ運輸に移籍。翌年には、先述の新しいトレーニングに取り組み、さらにナショナルチームのメニューとは別に、月に1回ペースで、メンタルコーチと面談するようになった。いいパフォーマンスをしていたとき、なにを考えていたか。逆に、悪かったときはどうか。そうやって、自分を掘り下げる作業。むろん、心の筋肉量を計測できるわけじゃないから、効果はすぐにはわからない。だが、ロンドン五輪に向けたレース中の11年には、自分が変わったことを実感したという。

「劇的な変化じゃないんです。2年かかりましたが、面談を重ねるうちに、自分の根本としっかり向き合うことができるようになっていた。柔軟性が出てきたというか……。たとえばオリンピックの林丹戦でも、自分の力を出し切ることに対してなんの迷いもなく、コートに立つと自分の軸、頼るところがあるという感じですね。だから、特定の試合に特別な意味を求めることはしないんです。オリンピックだから特別、ということもなく、自分がいまできることに集中した結果が、あの試合でした」

なるほど。なにやら禅問答のようだが、そうした境地が一種サムライのような立ち居振る舞いに通じ、オリンピック会場を感応させたのかもしれない。そして、今回。出場できなかった桃田(賢斗)や家族のことを思うと、複雑……と佐々木はいったが、かつてはこんなふうに語っていた。

「ロンドンでこれまで味わったことのない経験をし、感覚も変わりましたね。あれ以降の試合は、コートから見る景色がいままでと違っているんです」

リオデジャネイロのコートから、どんな景色を見るのだろうか。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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