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快勝の近江、多賀監督が「しもうた……」とうめいたワケは?

楊順行スポーツライター

快勝だった。鳴門(徳島)を相手に8対0。

「ここぞというときの選手たちの集中力に驚いた。簡単にはバントをしないのが今年のチームカラーですが、それにしてもバントなしで3点を奪った6回は大きいですね。スクイズも考えたんですが、それだと1点止まりかもしれません。勢いがあったので強攻した結果の3点で、持ち味である攻撃的な野球が初戦でできたと思います」

夏に限っては7年ぶりの白星に、近江(滋賀)・多賀章仁監督はご満悦だ。それはそうだろう、投げては小川良憲投手が鳴門打線に9安打を浴びながら要所を締めて完封し、打っては2回に5点、6回に3点の集中攻撃だ。もともと今年は、滋賀大会6試合で67点と攻撃力には自信を持っており、それが甲子園でも存分に発揮されたわけだ。

近江といえば2001年夏、滋賀県勢として初めての決勝進出を果たし、準優勝を飾ったチーム。竹内和也(元西武)、島脇信也(元オリックス)、清水信之介という、力量に遜色のない3人の投手を巧みに使った必勝パターンは、戦国大名・毛利元就が3人の息子にさとした「三矢の教え」になぞらえ、三本の矢と呼ばれたものだ。

多賀監督は当時、語っていた。

「3人とも、抜きん出たボールがあったわけではありません。ただ、努力だけは人一倍していました。なんとか勝たせてあげたい……と考えたのが、継投策です。一人では、1試合を抑えるのは厳しいかもしれない。ピッチャーは終盤に力が落ちてくるのに対し、打者は慣れてくるわけですから。ですが、3人でリレーし、力を合わせての9回なら、なんとかなるんじゃないか、と」

現役時代は捕手経験もある多賀監督らしい考え方だった。

ただそれ以後は、03年センバツのベスト8進出が最高成績。夏に限っては、10回目の出場を果たした08年以来、甲子園が遠かった。そこで12年のセンバツ出場時、なにかのきっかけになれば……と、特徴あるブルーのユニフォームの胸文字、そして帽子のマークのデザインを変えた。胸文字はOhmiの筆記体に、帽子のマークは飾り文字の「O」に。やがて胸文字は、OHMIという以前のブロック体に戻ったが、帽子のマークは飾り文字のままでこの夏まで戦い、6年ぶりの出場を果たすことになる。

そして、甲子園だ。史上初めて開会式が2日遅れた日程もあり、多賀監督は空き時間を利用し、球場内にある甲子園歴史館を訪れた。そのとき、

「しもうたなぁ……」

と思ったそうである。

そこには、準優勝した01年夏当時の近江のユニフォームと帽子が展示してあった。ふと気づくと帽子には、亀の甲羅のような六角形にデザインされた「O」の文字があった。なぜこの、原点ともいうべきデザインをないがしろにしてしまったのか……。多賀監督は急きょ、元のデザインをつけた帽子を発注する。色だけは01年当時のオレンジから白に変え、ベンチ入りメンバー分の制作は、なんとか試合本番に間に合った。ただ、練習補助員らがかぶる分は後回しで、元の飾り文字のまま。だから、フィールド上の選手とアルプスの部員たちの映像を注意深く比較すれば、帽子のマークが違うことがわかるはずだ。

そして原点に返った6日目第1試合、7年ぶりの夏の勝利。帽子のマークが、県大会とは変わっていますね……とくすぐった当方に、

「よう、気づきましたね」

と多賀監督が披露してくれたのが、甲子園歴史館での話である。そして、続けた。

「01年夏の準優勝は、まさかまさかの連続でした。力からいえば今年のチーム、明らかにあのときより上です」

と、いうことは? 滋賀県勢初の全国制覇もありうるぞ。ちなみに66回大会は取手二(茨城)、76回大会は佐賀商、86回大会は駒大苫小牧(北海道)と、6のつく大会は県、道としての初制覇が続いている。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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