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PL学園高の甲子園連勝を20で止めた岩倉高と山口重幸の奇跡の物語【その3・完結編】

横尾弘一野球ジャーナリスト
山口重幸はドラフト6位で阪神へ入団し、東京ヤクルトで長くスコアラーを務めた。(写真:岡沢克郎/アフロ)

 第96回選抜高校野球大会が3月18日に幕を開ける。甲子園を舞台に繰り広げられた物語には、こんな奇跡のような試合もあった。40年前の1984年、甲子園で20連勝していたPL学園と、初出場で決勝まで駒を進めた岩倉の対戦である。【前・中編は以下にあります】

PL学園高の甲子園連勝を20で止めた岩倉高と山口重幸の奇跡の物語

PL学園高の甲子園連勝を20で止めた岩倉高と山口重幸の奇跡の物語【その2】

 阪神への入団を決意した山口重幸は、入団前に小学校の同窓会に顔を出した。すると、担任だった恩師から思わぬ話を聞かされた。

「僕はその先生のことが大好きで、顔を見る度に『オレ、甲子園へ行ってプロ野球選手になる』って言っていたんです。先生も『よし、おまえが甲子園に出たら必ず観に行くぞ』ってね。僕はすっかり忘れていたんですが、先生は何人かの子供たちを連れて甲子園の決勝を観に来てくれていたんですよ。その話を聞いて感動してね。そうだよな、俺は子供の頃から甲子園へ行ってプロ野球選手になるって言っていた。それを毎日のように口にして、信じていたから現実になったんだなって。その時から、信じることの大切さを常に心に持っていますね」

 阪神は、山口に野手として期待をかけていた。バッティングに自信を持っていた山口も、外野手用のグラブを新調して大阪へ向かう。ところが、内野手をやるように指示され、春季キャンプが始まると掛布雅之、岡田彰布といったスター選手と一緒にノックを受けることになる。プロを代表する内野手の中に、内野は小学生の頃しかやったことのない素人同然の高校生。同じ空気を吸っているだけで緊張し、体重はあっという間に10kgも落ちてしまった。キャンプ中に休みをもらって高校の卒業式に出席すると、同級生から「あなたは誰ですか?」とからかわれるくらい、山口の体つきは変わっていた。

 山口が入団した当時、阪神の合宿所『虎風荘』は甲子園球場のレフト後方、道路を挟んだ場所にあった。午前中から始まるファームの練習でクタクタになって帰ると、球場から大きな歓声が聞こえてきた。かつて自分が頂点に立った球場に、今度はプロ選手として立ちたい――それだけを目標にして、山口はひたすら練習に励んだ。

 幸いにも、内野守備を一から教えてくれたのは、プロ球界で名コーチと呼ばれ、ロッテ時代の落合博満(元・中日監督)を二塁手として一軍に定着させたことでも知られる河野旭輝だった。バットを握った記憶がないというくらい、徹底的に守備を鍛えられた。そして、入団4年目の1988年には一軍出場も果たすことができた。攻守ともに調子がよく、一軍に定着するきっかけをつかみそうになると、故障やケガで棒に振ってしまうという不運にも見舞われたが、ファームでは主軸を任されるなど存在感を示し、厳しいプロの世界を生き抜いた。

「何とかプロの世界でやっていましたが、1993年に膝の靭帯を痛めてしまい、クビになるかなって思ったんです。でも、球団が費用を負担してくれて、手術を受けさせてもらえた。完全復帰は翌年の9月頃と言われていたので、一年を棒に振ってもまた頑張ろうってリハビリに励んでいました。ところが、ようやくプレーできるようになったら、10月に自由契約を言い渡された。ケガをしたままなら引退したんでしょうけど、プレーできるまでに回復していましたからね。諦めることができず、他球団のテストを受けることにしました」

 最初に受けた中日は不合格だった。次はヤクルト。テストを兼ねた練習を始める前に、野村克也監督のもとへ挨拶に行った。

「おう、おまえは甲子園の優勝投手なんだってな」

「はい」

「なぜ、プロではピッチャーをやらんかったのや」

「プロでは野手一本でやらせていただきました」

「おう、そうか」

 この短い会話で山口の合格が決まった。野村監督はプロ野球の歴史に残る名将のひとりであり、他球団を戦力外になった選手を見事に復活させることで『野村再生工場』と言われた。新たな戦力を求める際には、様々な角度からその選手を見るという。では、山口のように実技なしで合格になるケースには、どんな理由があるのか。山口自身がそれを知るのは、もう少しあとになってからだ。

 1995年にヤクルトの一員になった山口は、守備要員として一軍メンバーに抜擢された。当時、サードのレギュラーだった助っ人のヘンスリー・ミューレン(現コロラド・ロッキーズ打撃コーチ)は守りに難があったため、試合の後半になると山口が守備固めに入った。この年、山口は自己最多となる77試合に出場したが、打席に立ったのは28回。初めて一軍に昇格した1988年は、35試合で71打席だから、守備のスペシャリスト起用だったことがよくわかる。レギュラーが高い数字を残し、山口らバックアップの選手たちも持ち味を発揮したヤクルトはリーグ優勝を果たし、日本シリーズでも西武を破って日本一に。1試合だが、日本シリーズでも出場機会を得た山口は、翌1996年もペナントレースで62試合に出場した。

 だが、遊撃手として宮本慎也が成長すると、池山隆寛(現・東京ヤクルト二軍監督)が三塁にまわることになり、ミューレンは解雇。控えの内野手も若手が台頭してきたため、30歳の山口も自由契約を通告された。絶対的なレギュラーであれば、チームの成績がどうであれ、期待された数字を残せば野球人生は続く。しかし、山口のような控え選手は、チームの戦力構成によって去就が決められてしまうケースも多い。

「いつか終わるのがわかっていても、やはり現役を退く時には寂しさはあります。けれど、日本一も経験できたヤクルトでの2年間があったから、他球団に移ることは考えませんでした。野村監督をはじめ、ヤクルトの方々には感謝のひと言でしたね」

 気持ちを整理し、挨拶と御礼を言うために、山口は再び野村監督を訪ねた。

「短い間でしたが、大変お世話になりました」

「おまえ、今後の仕事はどうするんだ」

「これからゆっくり考えようと思います」

「そうか。よかったら球団に残らんか。おまえには、いくつか取柄があるが、何より一生懸命に取り組む姿勢がいい。それは、どんな仕事でも大切なことや。スコアラーとして野球を勉強してみんか」

 この短いやり取りで、山口の新しい人生が決まった。与えられた仕事は打撃投手兼スコアラー。プロで投手経験のない者が、打撃投手になるのは珍しいことだ。甲子園優勝投手という肩書き、また苦労をしながらも努力を続けた姿勢が、山口に新しい世界を切り開いてくれたのだった。

名将に見出されて現役引退後はスコアラーに

 1997年のシーズンは、スコアラー見習いのような形でデータ収集のノウハウを学んだ。ひと口にスコアラーと言っても、次の対戦相手になるチームの試合に足を運ぶ“先乗り”、目の前で行なわれている試合のデータを取ってベンチに報告する役割、同じリーグのライバルチームに密着する球団担当など、その仕事は多岐にわたる。必死にスコアラーとしてのスキルを磨くと、翌1998年からは試合の際にベンチに入ることになった。

「甲子園、プロ入りと、信じれば夢が叶うと考えていた僕は、普段の練習も若手と一緒に最後までグラウンドに居残り、泥だらけになってやっていたんです。もうレギュラーになれるわけないのにね。でも、そういう姿を見ていてくれる人がいた。野村監督の凄さをあらためて感じましたし、一度挫折した選手が立ち直るのもわかる気がしました」

 野村監督は1998年限りで退団したが、チームに『ID野球』という財産を残した。後任となった若松 勉監督も、そうした野球の継承を目論み、山口にもスコアラーを続けるように要請した。そして、2006年に捕手兼任で監督となった古田敦也も、山口を右腕に登用している。

「ヤクルトって面倒見のいい球団なんですが、やはり生え抜きの選手に引退後の仕事を用意してやらなければいけませんよね。だから、阪神から来た僕は、いつ『ご苦労さん』と言われてもいいように覚悟しながら仕事を続けてきました。でも、球団フロントの方から『山口も10年以上頑張ってくれているんだから、生え抜きみたいなものだよ』って言われて……。本当に嬉しかったですね」

 いわゆる“データ野球”は、プロのみならずアマチュア球界でも一般化しており、山口のようにプロまでの選手経験を持ち、かつ野球をアナライズできる人材に対するニーズは急速に高まった。気の休まる時間のない仕事だが、やりがいがあって楽しいと、山口は屈託のない笑顔で語る。

「僕らが若かった頃は、勝負どころで外角にカーブを投げて打たれたりすると、監督やコーチから『何で思い切って内角を攻めないんだ』と怒られて反省する。指導者と選手はそういう関係性でしたが、今はまったく違う。同じケースでも、なぜ外角のカーブじゃないのかをデータも交えて説明してやらないと、選手は納得して動かないんです」

 時代の流れとともに、若い選手の気質も変化した。だが、一流になるカギが技術力、身体能力、精神力の向上であるという点は不変だ。

「裏方になってあらためて感じましたが、プロで一流と言われる選手たちは、ひたすら技術とメンタルを磨いて自分の地位を築く。周りから見れば、何も言うことがない選手に限って、『山口さん、何かないですか』と、さらにデータ面での研究も怠らない。何事に対しても常に貪欲で執念を持っています。振り返れば、僕にもそういう気持ちがあったから、甲子園で優勝し、プロの世界に入ることができた。一流選手というのは、さらにそこをスタートラインとして、プロで頂点に立とうという信念を持ち続けているんですよね。そういう選手を相手にしていますから、こちらもプロフェッショナルでなければならないんです」

 山口の仕事は、監督やコーチ陣はもちろん、選手とコミュニケートする場面も多い。時には若い選手から、コーチや先輩にも相談できない悩みを打ち明けられることもあるという。プロで苦労を重ねたという経験も含め、人間同士の関わりにおいてはウエットに。一方、明日の試合を勝つためのデータ分析においては、一切の感情を挟まずドライに。そんな山口の姿は、普段はやんちゃでひょうきんな高校生でありながら、いざマウンドに立つとクレバーな投球で日本一になった岩倉時代と重なって見えた。

 真摯に言葉を紡ぐ山口を見詰めながら、岩倉の快進撃について考えてみた。

 当時の高校野球は、PL学園高に代表されるように管理と規律の下でチーム作りをしていた。甲子園大会を高い山に喩えれば、毎日の猛練習で登山に耐えうる足腰を鍛え、チームワークや戦術という登山用具も取り揃えていくのだ。そうやって同じスタートラインから登山を始めると、名門、強豪と呼ばれる高校は健脚を披露し、悪天候になっても上手にビバークなどしてグイグイと頂上に近づいていく。新鋭校が、そのペースについていくのは至難の業だろう。ところが、山口らの岩倉は、管理に対して自主性、規律よりも自由奔放を軸にしたチーム作りを目指すことで、まったく違った登山道を見つけた。そして、そこを登った結果、タッチの差でPL学園高より先に頂上へ辿り着けたのではないか。

 山口は、そうした高校野球を経験したことで、当時のスポーツマンがあまり持ち合わせることのなかった人間的な柔軟性も兼ね備えたのだろう。そして、甲子園よりも厳しいプロ野球という登山でも、自らに合ったルートを探し出して着々と前に進んだ。素人同然だった内野手に取り組み、最後は守備固めに起用されるほど技術を磨き上げたことなど、強く柔軟な山口の生き方を象徴している。さらに、その積み重ねが、現役引退後の仕事にも生きたのだ。

 そんな山口に、最後に尋ねてみた。

「山口さんが小学生時代の山口重幸少年に出会ったら、どういう言葉をかけてあげますか?」

 山口は、落ち着いた口調でこう語った。

「小学生の頃の僕か……。大人の目から見れば、凄く生意気なガキなんでしょうね(笑)。でも、僕はそういう子供って嫌いじゃないんですよ。自分のことを振り返っても、現役時代までは『オレが、オレが』って自分のことばかり考えてきたけど、若い頃はそう思わないと叶わない夢もある。それでも大人になれば、自分のいるべき場所って、だんだんわかってくるじゃないですか。信じ続けて甲子園の頂点を知ったこと、それにプロで苦労した経験があるからこそ、裏方になっても『チームのため、選手のため』って心から思える。だから、小学生時代の自分には『甲子園へ行ってプロ野球選手になれるように頑張れよ』って言ってあげるかな。もしかしたら、僕も恩師のように、こっそりとそんな“自分”を観に、甲子園へ行っちゃうかもしれませんね」

「オレ、甲子園へ行ってプロ野球選手になる」

 その夢を叶えた、若く、将来性豊かな選手たちが、東京ヤクルトにも毎年入団してくる。山口重幸は、自分と同じ瞳をした後輩たちの最大のサポーターとなり、厳しい“登山道”の案内人を務めてきた。そして、昨年限りで東京ヤクルトを退団すると、2月半ばには岩倉高でコーチに就くことが報じられた。2024年4月1日、山口はまた新たな道を歩き始める。【おわり】

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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