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PL学園高の甲子園連勝を20で止めた岩倉高と山口重幸の奇跡の物語

横尾弘一野球ジャーナリスト
山口重幸(左)を擁する岩倉高は、初出場でPL学園高の甲子園連勝を20で止めた。(写真:岡沢克郎/アフロ)

 第96回選抜高校野球大会が3月18日に幕を開ける。甲子園を舞台に繰り広げられた物語には、こんな奇跡のような試合もあった。40年前の1984年、甲子園で20連勝していたPL学園と、初出場で決勝まで駒を進めた岩倉の対戦である。

 人さし指と小指を立て、「ツーアウト」とバックの内野陣に示した岩倉高のエース・山口重幸は「いよいよ8回まできたな」と、もう一度気持ちを入れ直そうとした。低く垂れ込めた濃鼠の雲から、春雨がしとしとグラウンドに零れ落ちる。スタンドにはカラフルな傘の花が咲いている。

「あとひとりだぞ。頑張れ」

 どこからか、そんな声が聞こえた。

「あとひとりって……」

 この年から白色灯の電光掲示にリニューアルされた阪神甲子園球場のスコアボードに目をやると、『P L』の列にはきれいにゼロが並んでいる。

「あれっ、“八”の下までゼロが入っている……」

 山口の視線はすぐに、凸型の時計塔の下にある『SBO』の表示に移った。アウトを示す“O”の右には、真っ赤なランプがふたつ滲んでいる。

「おい、9回ツーアウトかよ」

 心の中でそう呟くと、途端に全身が小刻みに震え出した気がした。

「あとひとり、このバッターを打ち取ったら優勝しちゃうのかよ」

 目の前にいるPL学園の三番打者・鈴木英之(現・関西国際大監督)は、この試合で唯一のヒットを打たれている最も嫌らしい打者だ。

「よっしゃ、打てるものなら打ってみい」

 山口が、カウント1ボールから渾身の力を込めて投げ込んだカーブはしかし、鈴木にいとも簡単に弾き返された。

「やられた!」

 打球はバックスクリーンに向かって高々と舞い上がる。PLサイドの一塁側アルプススタンドからは大歓声、岩倉の応援団が詰め掛けた三塁側からは悲鳴が上がる。懸命に背走する中堅手の足が止まった。

「入っちゃったか……」

 山口の目線の先で、中堅手はこちらに向き直って両手を挙げた。その直後、ボールはグラブに吸い込まれた。

 無意識のうちに両手を高々と突き上げ、「ウォーッ」という声に振り返ると、捕手の浅見英祐が物凄い勢いで走って来る。子供の頃から甲子園の優勝シーンを何度も見ていた山口の体は、本能的に飛び上がって浅見に抱きついた。サードの森 範行、ショートでキャプテンの宮間豊智が、次々と飛び掛ってきてラグビーのモール状態になる。誰が何を言っているのかよくわからない。グラウンドに倒れながら、山口は「本当に優勝しちゃったの?」と、まだ半信半疑だった。

 一塁側では、清原和博(元・オリックス)がネクストバッターズ・サークルで低い姿勢のまま頭を垂れ、桑田真澄(現・巨人二軍監督)はバットケースの陰から最後の場面を見詰めていた。初出場で勝ち取った岩倉の優勝は、PL学園の甲子園における連勝が20で止まった瞬間でもあった。

 桑田と清原の“K・Kコンビ”が鮮烈に甲子園デビューを果たしたのは1983年の夏だった。この時から、高校野球界は二人の怪物を中心に回り始めたと言っても過言ではないだろう。すべての球児の夢は、全国制覇よりも“打倒・PL”だったのかもしれない。そんな甲子園の歴史でもひと際強い光を放っていた時代に、突然現れた彗星のようなチーム――それが1984年春の岩倉高だ。甲子園に初出場で決勝へ進出し、無敗で突っ走るPL学園を倒して頂点に立った奇跡の快進撃。その中心にいたのが四番でエースの山口重幸だった。

何で鉄道関係の高校に?

「ゴーッ」という大きな音を立ててジェット旅客機が離着陸を繰り返す。

 東京国際空港を抱く東京都大田区羽田で生まれ育った山口の夢は、「甲子園へ行ってプロ野球選手になること」だった。小学四年生になると、地元の大田リトルに入団してサードやショートを守っていた。中学に進学する際、休日だけでなく毎日練習のできる環境がいいと指導者に勧められ、区内では強豪で知られていた大森八中に越境入学。2年生の夏頃から投手の練習もするようになったが、どちらかと言えばバッティングが好きで、高校でも甲子園を目指してガンガン打ってやろうと思っていた。中学の監督からは、進学先の候補として日体荏原や明大中野といった名前を聞いていたのだが、ある時から、そこに岩倉という聞き慣れない高校が加わってきた。

「鉄道関係の学校だって聞いて、はじめは『何で?』って思ったんですけどね……」

 甲子園に出場する高校の顔ぶれが決まった時、それらの高校がどんな特色を持っているのか調べてみると面白いものだ。公立か私立か、進学校か就職率が高いのか、大学の附属、宗教校、水産高校、航空高校……。岩倉のルーツは、1897(明治30)年に創立された私立鉄道学校である。ほどなく校地を神田から上野駅前に移し、1903年には日本鉄道会社の設立に貢献した岩倉具視の功績を讃えて岩倉鉄道学校とした。その後、学制改革の際に泰東商業学校を統合して岩倉高等学校となり、機関科、運輸科、商業科を設置して鉄道マンの育成に努め、一時停止していた普通科の募集を1973年から再開する。現在でも首都圏の鉄道会社、その関連企業へ就職する生徒は多い。そうした中、野球部は1958年に軟式から転換して創部。翌1959年には、現在の西東京市にグラウンドと合宿所を設置した。

 山口が知らなかったのも仕方ないだろう。学校の歴史は長いが、野球部には目立った実績がなかったのだ。しかし、よく話を聞けば、情熱のあるコーチが甲子園を目指したチーム作りをしており、東京や千葉の中学、シニア・リーグなどにせっせと足を運んで選手を見ているという。そのコーチが自分を欲しがっていると聞いた時、山口の中に「面白そうだな」という気持ちが湧き上がってきた。そして、小学生の頃からよく知っていた地元の好投手も岩倉に入ると知ったことが、山口の気持ちを決めた。

「あいつが入学するのなら、俺が打てば甲子園に出られる」

 岩倉高に入学して間もなく、山口は自分の選択が正解だったと実感する。学校職員として招かれた望月市男コーチが、山口ら豊かな将来性を備えた選手を苦労して集めると、自ら監督になってチームを指揮するようになった。山口の同級生の実力は、1年生とはいえ、先輩たちに決して引けを取っていない。特に菅澤 剛と宮間の二遊間は、すぐにレギュラーになっても不思議ではないほど高いレベルだった。優秀な選手を集めたからといって、そう簡単に勝てないのも高校野球なのだが、岩倉は1982年夏の東東京大会で早くもベスト8に名乗りを上げる。ただ、新チームを結成すると、山口が「あいつが入学するのなら」と期待した投手が体を壊してしまい、代わりに山口が投手に抜擢された。

「望月監督は、頭ごなしに指導するのではなく、僕らの自主性に任せて成長させようとする指導者でした。当時の高校野球では、珍しいタイプだったんじゃないですかね。また、監督は野手出身だったこともあり、ピッチャーの練習では技術的なアドバイスはほとんどありませんでした。今思えば、ストレートが142~143キロは出ていましたが、ぎこちない投球フォームからして、僕は魅力のある投手ではなかった。どちらかと言えば、変化球をポンポン投げるコントロール勝負の技巧派でしたね。普通の監督なら、徹底した指導で本格派のエースに仕上げるのかもしれない。でも、望月監督は、そういう僕の特徴をもっと生かせ、という感じでしたからね。おかげで、のびのびとやらせてもらいました」

 投手になって間もなく山口はエースになり、ほかにも4人の2年生がレギュラーをつかんだ。

 しかし、山口は1983年夏の東東京大会まで2週間という大事な時期に腰を痛め、軽度の椎間板ヘルニアだと診断されてしまう。それでも、腰にいいと言われる治療は何でも試し、どうにかマウンドに立てるようになった。一回戦から11点を叩き出すなど、強力打線が爆発する一方、1点を争う接戦では山口が踏ん張り、岩倉はノーシードからベスト4まで勝ち進む。帝京高との準決勝は序盤から山口が打ち込まれ、5対13の大差で敗れたが、最終回に7点を奪われるまでは、5対6と1点差で食らいついた。

「自分たちの学年になれば、必ず甲子園に行ける」と、山口はこの時、確信した。

 秋季都大会で、その確信が一歩ずつ現実に近づいていく。ブロック大会の4試合を難なく勝ち抜くと、山口が先発し、1年生の左腕・内田正行がリリーフするという必勝パターンで準決勝まで駒を進める。日大三高との試合は初回に2点を先制され、6回に1点を返したものの9回を迎えてしまったが、ここで七番の武島信幸が起死回生の同点本塁打。延長10回で白星をもぎ取り、決勝でも法政一高(現・法政大高)を下して優勝を飾った。このあとに開催された明治神宮大会でも優勝した岩倉は、翌春の選抜出場を確実なものにした。

「日大三高との試合で、武島の同点ホームランが出た時はグッときましたね。だって、普段はほとんど打てない武島の高校初ホームランがあんな場面で飛び出したんですから。自分たちの力には自信を持っている反面、岩倉の野球部は強豪じゃなく、伝統もありませんでしたから、名門の日大三高にリードされた時はヤバいと思っていたんですよ。でも、それを乗り越えて選抜出場を確定させた。ちゃらんぽらんなヤツらでよくやったな、というのが正直な気持ちでしたね」

 翌1984年2月1日に、正式に選抜大会への出場が決まっても、山口に全国制覇をしてやろうなどという気負いはなかった。にわかに増えた取材では「日本一を目指します」と繰り返していたように、出るからには優勝したいという気持ちはあったものの、そんな夢が簡単に実現できるほど、甲子園という舞台は甘くないだろうと思えた。ましてや、現実的に考えれば、優勝するということは、どこかであのPL学園高を倒さなければならないのだ。とにかく、甲子園では精一杯プレーしようと考えた。

 この冬の日本列島は厳しい寒さに包まれた。1984年1月19日には、九州から関東にかけて太平洋側の各地が大雪に見舞われるなど、記録的な寒さは選抜大会に出場するチームにも少なからず影響を及ぼしていた。

「ひと冬越えて逞しさを増す」と言われるように、成長途上にある高校球児にとって、冬場の練習は大きな意味を持っている。ゆえに、都道府県大会の直後に全国大会が開催される夏とは異なり、前年秋の成績を基に出場校が決まる選抜大会では、想像以上の成長を見せる選手が出現することで、優勝候補を見極めることさえ難しい。それに加え、冬場の寒さが厳しいと、どうしても投手の投げ込む量が減り、従ってチームの完成度という視点で見れば、指導者のイメージ通りに仕上がっていないチームも少なくないはずなのだ。こんな部分にも、“波乱”の予感はあった。

 1984年3月26日、開会式の入場行進曲に杏里の『キャッツアイ』が流れ、第56回選抜高校野球大会は開幕した。【つづく】

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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