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日本初の使い手が明かす魔球「スイーパー」の絶大なる効果

横尾弘一野球ジャーナリスト
大谷翔平より大きく曲がるスイーパーの使い手が十数年前にいた。(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 5月10日(現地時間)のヒューストン・アストロズ戦では初黒星を喫したものの、今季の大谷翔平は8試合に先発して4勝、防御率2.74と安定した数字をマークしている。その投球の軸となり、注目を浴びているのが魔球「スイーパー」である。

 回転数や回転軸など、投球の様々なデータが科学的に明らかになった現在、野球における変化球の分類は実に複雑だ。スイーパーはスライダーの一種とされ、ある程度の球速があり、横の変化量が大きく、反対に縦の変化量は少ないものを指す。ただ、スライダーはもともとslide(滑る)が語源で、打者の手元で横に滑り、バットの芯を外す変化球として知られた。西鉄(現・埼玉西武)でシーズン42勝の記録を打ち立てた稲尾和久、西武の黄金時代に活躍した郭泰源のスライダーは、そうしたイメージだったと思う。

 それが、1990年代後半に松坂大輔(元・埼玉西武)らが「縦スラ」とも呼ばれた滑り落ちる軌道のスライダーを投げ始めた。当時、これは「速いカーブだ」と主張する評論家もおり、「スラーブ」と区別されることもあったが、スライダーの軌道としては次第に主流になり、横に変化するスライダーの使い手は激減した。そんな流れの中で、ワールド・ベースボール・クラシック決勝の9回表二死、アメリカ代表のマイク・トラウトとの勝負で大谷がウイニング・ショットに使ったスイーパーの軌道がことさらファンやメディアに強く印象づけられ、新たな球種のように注目されているのが現状だろう。スイーパー(sweeper)はカーリングの掃き手にも使われているように、箒で掃くイメージの軌道。元祖スライダーと決定的に異なるのは、元祖スライダーが真ん中からホームプレートの端へ滑るのに対して、スイーパーにはホームプレートを横切るイメージがある。

 ただ、大谷自身が「日本にいる時から投げていた」と言うように、スイーパーという名称は新しくても、その変化球自体は以前からあったものだ。実際、日本の野球界でも、十数年前に大谷よりも変化の大きい「スイーパー」の使い手がいた。現在はJR九州で投手コーチを務める濱野雅慎だ。

数年間「打たれた記憶がない」最高の武器

 濱野は184cmの右サイドハンドで、神戸西高時代は「ストレートは130キロ台中盤で、変化球が苦手」だったという。

「ある日、テレビ中継で見たランディ・ジョンソン(当時はアリゾナ・ダイヤモンドバックス)の横に大きく曲がるスライダーが、手首を捻る感覚ではなく、少し角度を変えて空手チョップするイメージでリリースしていることを知り、練習で試してみるとよく曲がったんです」

 スライダーを投げようとするのではなく、ストレートを投げる感覚で手首の角度だけを少し変え、腕もしっかりと振る。だから、フォームも緩むことなく、相手打者にも変化球だとわかり辛い。

「でも、軌道はまだ一度浮き上がってから曲がる感じでした」

 そこにスピードが加わったのは、進学した国士舘大で制球難もあって目立つ実績を挙げられないでいた時。指導者から「スライダーにスピードをつけたらどうか」とアドバイスされ、手首をさらに固める感覚で強く腕を振ったところ、ホームプレートを横切るような軌道に進化する。そして、2007年にJR九州へ入社し、下半身の使い方を教わるとコントロールも安定した。

2010年の都市対抗決勝で投げる濱野雅慎。この年はシーズン10勝をマークした。(写真提供/小学館グランドスラム)
2010年の都市対抗決勝で投げる濱野雅慎。この年はシーズン10勝をマークした。(写真提供/小学館グランドスラム)

 社会人の開幕戦となる3月の東京スポニチ大会の初戦(二回戦)に3回途中からリリーフすると、4安打1失点で勝利投手となり、準々決勝では強豪のヤマハを6安打で完封。さらに、決勝でもHonda鈴鹿を5安打でシャットアウトし、初優勝の原動力となって最高殊勲選手賞と新人賞を手にする。

 右打者が「体に向かってくる」と腰を引いたボールを、捕手の中野滋樹(現・JR九州監督)が外角いっぱいで捕球する。そんなスライダーは、いまだかつて見たことがなかった。「まるでファミスタみたい」とファンにも衝撃を与えた武器を手に、濱野は2009年の日本選手権初優勝を皮切りに、2010年は都市対抗、日本選手権とも準優勝と3大会続けて日本一を争うマウンドに立ち、2011年には日本代表としてパナマで開催されたワールドカップに出場するなど、数年にわたって無双状態だった。

「肩や肘の負担も小さな投げ方だったので、連投もできたのは大きかったですね」

 どんなにビデオ映像で研究しても打てないのは、濱野のスライダーを再現できる投手がおらず、打つ練習ができないからだと言われていた。そうして、2010年にマークした主要大会でのシーズン10勝は途方もない記録。濱野も「その頃は、勝負にいったスライダーを打たれた記憶がありません」と振り返る。

 これだけの実績がありながら、新人だった2007年は都市対抗九州二次予選で敗れた。当時の吉田博之監督によれば、「球審が濱野のスライダーをストライクに取れない。ホームを横切るほど曲がるわけがないと思っているから、中野が捕球した位置でボールと判断している」ということ。面白かったのは、吉田監督が翌春の強化練習中に地区の審判員を呼び、球審の立ち位置(捕手の後ろ)と濱野の背後でスライダーを見せたことだ。球審の位置ではボールに見えるが、濱野の背後から軌道を見た審判員たちは「本当だ。ホームを横切っています」と目を丸くした。

 そして、濱野にも興味深い記憶がある。2011年のワールドカップで、濱野はオランダ、パナマ、ギリシャを相手に登板した。すると、国内では無双状態のスライダーで抑えるのは難しいと感じた。

「海外の打者はホームから離れて立ち、グッと踏み込んでくる。手足も長いので、横に曲がるだけではバットが届きそうだと感じました。それで、バットが届きそうもない軌道で投げ込むと反応しなかった」

 そう、その頃はまだ、フライボール革命前で、バレルゾーンという概念もなかった。大谷のスイーパーがより効果を発揮しているのも、打者のスイング軌道がアッパー気味に変化したからという時代背景もあるのだろう。

「今の時代に社会人デビューしたら、濱野さんにはメジャー・リーグからスカウトが来るかもしれませんね」

今春、JR九州へ入社した平野皓清。186cmの右サイドハンドが、スイーパーをマスターしたら面白いかも知れない。(写真提供/小学館グランドスラム)
今春、JR九州へ入社した平野皓清。186cmの右サイドハンドが、スイーパーをマスターしたら面白いかも知れない。(写真提供/小学館グランドスラム)

 そう向けると笑った濱野は、「今年、JR九州に平野皓清という右サイドが入社したんですが、私以上に潜在能力があります。成長が楽しみなんです」と教えてくれた。濱野コーチは、伝家の宝刀を平野に伝授するだろうか。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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