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三兎を追って三兎を得る宿命――落合博満のホームラン論その6

横尾弘一野球ジャーナリスト
落合博満のバッティングは、フォームだけでなくタイトルに対する考え方も個性的だ。

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たった1打席でバッティングは大きく変わる――落合博満のホームラン論その5

「今になって振り返れば、獲れるタイトルはすべて手にしておけばよかったと思う。けれど、現役の頃は三冠王だけを目指していたし、3つ揃わないならタイトルはいらないとさえ考えていた。格好よく言えば、それが三冠王の宿命なんじゃないかな」

 そう言って、落合博満は静かに笑う。自分本来のバットスイングが取り戻せない中でも、1990年に本塁打と打点の二冠を手にした落合は、並々ならぬ決意で1991年のシーズンに臨む。春季キャンプを順調に過ごし、まずまずの状態でペナントレースを滑り出すも、4月下旬に右脹脛の肉離れが判明。しばらくは代打にまわるなどして様子を見ていたが、治療に専念したほうがいいというトレーナーの勧めで、打率、本塁打、打点ともトップに立っていた5月1日に登録を抹消された。

 3週間にわたってリハビリに努め、ウエスタン・リーグでの調整を経て5月28日に復帰。19試合を欠場したが、この休養が奏功して落合は打ちまくる。7月10日には規定打席に到達して打率1位に躍り出ると、本塁打は池山隆寛、打点は広沢克己と、ヤクルト勢との勝負になっていた。

 9月4日に28号本塁打を放って池山に並んだものの、夏場から立浪和義、種田 仁、マーク・ライアルと並ぶ中日の上位打線が揃って不振に陥り、打点が思うように伸びない。走者なしの場面で打席に立つことが多かったため、広沢との16打点差をどう詰めていくかを落合は考えた。

「上位打線の調子もなかなか上がってこないので、せめて自分で1打点を稼ぐことにした。そう、ホームラン狙い。私は全打席でバックスクリーンに叩き込むことを考えていたけど、ボール球に手を出すことはしなかった。しかし、この時は少々のボール球でも強引に打ちにいった。凡打が増えるから打率は落ちていくが、ある程度まで打率を犠牲にしても本塁打と打点を積み上げようとした」

本塁打狙いのバッティングで打率を大きく落とす

 9月11日の広島戦から6試合で5発と、中日に移籍5年目で最高のペースとなった本塁打では独走態勢を築く。打点も80まで伸びたが、広沢も着々と稼いで91だ。9月の終わりまでに本塁打は35で安全圏に入り、広沢に9打点差まで迫ると、残り試合は中日が9、ヤクルトは6となっていた。

 だが、10月2日の巨人戦は桑田真澄、3日の広島戦では佐々岡真司に、いずれも4打数無安打に抑えられる。本塁打ばかりを狙うことで、落合のバッティングは全体のバランスが大きく崩れていたのだ。4日までに1分8毛も急降下した落合の打率は.3389となり、ヤクルトで台頭していた古田敦也に2毛差で逆転されてしまう。

「このあたりで打点王を諦めれば、首位打者と本塁打王は手にできたかもしれない。でも、その選択肢はなかったんだ……」

 最後まで本塁打狙いのバッティングを続けた落合は、10月13日のヤクルトとの直接対決ではひたすら歩かされる。6打席連続四球のプロ野球新記録とともに、さすがの落合も打点王は無理だと観念した。そして、15日の広島とのダブルヘッダーで計6打数5安打をマークし、打率を.33957に上げて古田を再びリード。落合は、激動のシーズンを終える。

 果たして、翌16日の第1打席で左前安打を放った古田は、打率.3398として首位打者に輝く。落合は2毛3糸、すなわち4350打数1安打の差で首位打者を逃し、タイトルは本塁打王のみに終わった。

 三冠王とは、プロの中でも卓越した打撃技術と強靭なメンタルを備えた者しか狙えない栄冠だろう。だが、それを2度、3度と手にするためには、時間をかけて作り上げてきた自身の打撃フォームを崩すことさえ厭わない。この大きな矛盾は、長い日本プロ野球の歴史の中でも落合しか経験していない。

「二兎を追う者は一兎をも得ず、とことわざでは言うけれど、三兎を追って三兎を得る。それが三冠王の宿命なんだ」

(写真=K.D. Archive)

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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