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「ハーフがコンプレックスだった」ウイリアムソン師円さんが目指す「周りの人を笑顔にする人生」

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
大会出場で遠征した長野市で取材に応じたウイリアムソン師円さん(撮影:矢内由美子)

スピードスケートで2014年ソチ五輪と2018年平昌五輪に出場し、昨年の春に一線を退いたウイリアムソン師円さん。現役時代の戦績を振り返りつつ、多くのスケート仲間や関係者から愛され、信頼されてきたキャラクターがどのように培われたのかを聞いた。

■五輪デビューレースで最下位…初めて味わった挫折

「中学時代は『スケートは高校までかな』と漠然と考えていました」という師円さんだが、山形中央に入って椿央氏の指導を受けるとめきめきと成績が伸びた。

ただ、2年生まではジュニアの代表入りに届かず、最後の1年を「ジャパンのワンピースがほしい」という目標を持って過ごそうと思ったところ、高2の3月にあったカルガリーの大会で好成績をマーク。「オリンピックシーズンなんだから上を目指さないとダメだ」と椿氏に発破をかけられつつ、高3の5月には椿氏の売り込みで日本電産サンキョー入りが内定。名門チームに入るという自覚から夏のトレーニングでひとまわり強さを増していった。

ソチ五輪シーズンの開幕戦だった2013年10月の全日本距離別選手権男子5000mで優勝。W杯の代表入りを果たして世界を転戦してさらに成長し、同年12月にあったソチ五輪代表選考会で見事5000mの出場権を獲得した。

「オリンピックという次元に自分が行けるとは思っていなかったので、夢のまた夢でした」

滑る度にタイムを縮めるほどの勢いで迎えた五輪本番。しかし、世界は甘くなかった。師円さんは最下位の成績に終わった。

「ソチ五輪は高校の3年間で初めて感じた挫折でした。でも、最下位という結果が良かったのかもしれないと思っています。強い選手になるためには、成功体験だけじゃダメ。もちろん、自信をつけるにあたっては成功体が必要ですが、ワンランク上のレベルを目指すためには壁にぶち当たる必要がある。筋肉も、強くするためには一度壊すことによってさらに大きな筋肉がつく。それと同じだと思います」

山形中央高3年生で出た2014年ソチ五輪でのウイリアムソン師円さん
山形中央高3年生で出た2014年ソチ五輪でのウイリアムソン師円さん写真:アフロスポーツ

■チームパシュートで世界の表彰台へ

ソチ五輪以降も個人種目では世界の壁に跳ね返されたが、3人1組で競うチームパシュートで力をつけていくことで個人種目の成績も上向いた。

2016年12月にW杯アスタナ大会で中村奨太、土屋良輔と組んで日本男子として初めてチームメートで優勝。地力を蓄えて出場した2018年平昌五輪では1500m10位、チームパシュート5位、マススタート11位となり、世界上位との差が着実に縮まった。

北京五輪を目指す過程ではチームパシュートの成績がさらに高い順位で安定し、2018年12月のW杯ポーランド大会で土屋良輔、一戸誠太郎と組んでW杯2勝目。2020年2月の世界距離別選手権では土屋陸、一戸誠太郎と組んで3分36秒41の日本新記録を出し、初の表彰台となる銀メダルを獲得した。

2020年世界距離別選手権で銀メダルを獲得した(撮影:矢内由美子)
2020年世界距離別選手権で銀メダルを獲得した(撮影:矢内由美子)

北京五輪では金メダルを――

男子中長距離勢にとって悲願の“オリンピックの表彰台”も見えてきたという手応えを掴んだのは、2021年2月だった。日本勢がコロナ禍で海外遠征を取りやめていた中、欧米勢は次々と国際大会を再開。師円さんたちは世界距離別選手権(オランダ)と同じ日程で長野・エムウエーブで記録会を行い、優勝したオランダチームを上回るタイムでフィニッシュし、希望をさらに膨らませた。新戦術として短期間で一気に世界の主流になった「プッシュ走法」で日本は高い技術を身につけることに成功していた。

ところが、北京五輪シーズンの前半にまさかの事態が起きた。2021年11月、国の出場枠獲得が懸かるW杯でチームメートが転倒。日本はポイントを稼ぐことができず、男子チームパシュートは五輪出場権を逃した。

2018年平昌五輪男子チームパシュートで先頭を滑るウイリアムソン師円さん
2018年平昌五輪男子チームパシュートで先頭を滑るウイリアムソン師円さん写真:ロイター/アフロ

■野球ではキャッチャー、サッカーではキーパー、学校では生徒会副会長

「一線を退くことを決めてから、今後どんなことをしたいかについて、いろいろな人と話をしている中で、自分には昔から具体的な夢があったわけではなく、『人のためになることをしたい』というモットーで生きてきたことに気づきました。スケートをやっているのもそうで、自分がスケートを頑張ることで周りの人が喜んでくれるのをみるのが自分は楽しかったのです。振り返ると、子供の頃から自分は主役じゃないという考えがあったように思います。野球ではずっとキャッチャーで、遊びでサッカーやる時もキーパー、学校でも生徒会の副会長。常に2番手を好んでやってきました」

その背景には幼い頃から持っていた“コンプレックス”があるという。

「自分にはハーフというコンプレックスがあって、小さい頃から常に周りの目が気になっていて、キョロキョロしながら生きてきました。特に小中学生の頃です。高校生になると逆に、すぐ名前を覚えて貰えるというポジティブな方向になっていったので、そこで初めて、これって武器なんだなと考えが変わったのですが、小さい頃のことはやはり残っているもの。自分がこれをすることによって、他人はどう思うかということで行動するようになっている。そこが“真のアスリート”になりきれなかった部分なのかなという思いはあります。周りの視線をいとわずに突き進むっということが自分にはできなかった」

夏の合宿では陸上トレーニングで汗を流した
夏の合宿では陸上トレーニングで汗を流した写真:長田洋平/アフロスポーツ

■「人のためにならない仕事なんて一つもない」

引退後の道を考えた時に、ハッとさせらたのは「どんな仕事も人のためにならない仕事なんて一つもないよ」というアドバイス。指導者としてのオファーもあったが、「選手がつらい顔をしていると“もういいよ”と声を掛けたくなるし、練習をやめさせたくなる。僕には鬼になれない部分があって、名将と言われてきた人たち自分は違うなという思いがあった」という考えで断った。

現役試合にしみじみ思ったことがある。

「高校の時から世界のトップに立つまで下克上だと言ってやってきたんですけど、いざ引退して思ったのは、自分の夢は世界平和だったんだろうなということでした」

思い出すシーンは2021年2月の大会。1500mと5000mで国内最高記録を塗り替えて久しぶりに優勝した時、それまで互いに切磋琢磨してきたライバルたちが浮かない表情をしているのが目に入った。

「その時、思っていた景色と違うなと感じてしまったんです。見たかった景色は、自分が頑張って活躍する、メダルを取ることで、みんなが喜んでくれる姿でした。僕が好きだったのは、みんなで肩組んで頂点を目指して頑張ろうぜと言ってやっていく世界。周りを蹴落として自分が1番になるんだという景色ではなかった。それが、北京五輪シーズンを最後にしようと決めたきっかけでした」

■周りの人を笑顔にする

今は「自分の良さは第二の人生で生かそう。自分が持っている力を発揮するのは、アスリートとしてではなく、その後なのかもしれない」と思っている。だから、指導者という形ではない職業で生計を立てつつ、現役を終えて間もない人でないとできないスタイルで次代を担う選手たちに経験を還元する今という時間は貴重だ。

師円さんにとってスケートとは?

「最初に思い浮かぶのは、自分が1番輝ける場所だったということです。スケートをやっていなければ、おそらくオリンピックにも行っていなかったでしょう。いろんな経験をさせてもらって、世界に行けて、充実した競技生活でした。自分はスケートを選択して本当にラッキーだったと思います。周りの人たちに感謝しかありません」

昨年10月の全日本距離別選手権では師円さんの現役目線に近い場内解説が好評を博した。今後も引き続き、スケートの普及や盛り上げに一役買っていくつもり。第二の人生でも周りの人を笑顔にしていくであろう師円さんの今後が楽しみだ。

【前編】はコチラ

https://news.yahoo.co.jp/byline/yanaiyumiko/20230327-00342946

【スピードスケート】ウイリアムソン師円さんが考える「引退直後だからできること」

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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