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内田篤人はいつも身を削って、闘っていた

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
2019年3月1日、Jリーグ川崎フロンターレ戦の内田篤人(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

 8月23日限りで現役を退いた元日本代表DF内田篤人。鹿島アントラーズやシャルケのユニフォームと同様に、日本代表ユニフォームがよく似合っていた。

■「悔しさよりうれしさが大きい」

「オカちゃん(岡崎慎司)が喜んでいた。本田(圭佑)さんから横パスが来たとき、緊張したって言っていたよ。俺もうれしかったね」

 2010年6月24日、南アフリカW杯グループリーグ第3戦。岡田武史ジャパンはデンマークを3-1で下して決勝トーナメント進出を決めた。内田は南アW杯までの間、遠征先で岡崎とともに過ごすことが多かった。08年の北京五輪からのチームメートであり、南アW杯アジア予選ではともにレギュラーとしてプレーし、日本にW杯出場権をもたらす原動力となっていた。

 けれども南アでは2人とも先発落ちした。悔しさを押し殺して日々の練習に励んでいたサブ組の同志が、デンマーク戦で初ゴールを決めたことが、内田にとっては素直にうれしかった。

「オカちゃんとはジョージ(※南アの日本代表ベースキャンプ地)の宿舎の敷地がすごく広いので、自転車で走ったりした。気持ちよかったなぁ。もちろん、チームが勝ったこともうれしかったですよ。自分が試合にいられたらもっとうれしかったけど、悔しさより喜びが大きかったです」

 そして、6月29日。日本はパラグアイとラウンド16で戦い、PK戦の末に惜敗した。ベスト8入りは逃したが、堂々たる戦いぶりと、敗戦の後に互いに肩を抱き合う選手たちの姿は、日本全国に感動を巻き起こした。

■「僕は幸せなことにまだ22歳」

 一方で南アのピッチに立てなかった選手が5人いた。それは厳然たる事実であり、内田はその1人だった。

 4試合、出場ゼロ。パラグアイ戦後のミックスゾーンで内田は感情を見せないようにしているのか、さばさばした口調でこう言った。

「ベスト16は日韓大会(02年)と同じなので、もうひとつ上に行きたかったですね。でも僕は幸せなことにまだ22歳。年齢的にはまだチャンスはあると思います。遠藤(保仁)さんも4年前のことがあった。ここからは自分次第。頑張り次第だと思います」

 内田は7月1日に日本に帰国した後、既に移籍が発表されていたシャルケに合流するため、7月中旬にドイツに渡る予定になっていた。もうドイツ語の勉強も始めていると言い、「ちょいちょいやっていますよ。高校のとき以来で久し振りだから、勉強が面白い」と目を輝かせていた。

2009年南アフリカ遠征で地元の子供たちと触れあう内田篤人(撮影:矢内由美子)
2009年南アフリカ遠征で地元の子供たちと触れあう内田篤人(撮影:矢内由美子)

■「人として強く、大きく。いい男になりたい」

 新天地のシャルケで指揮を執るフェリックス・マガト監督(当時)は、07年から09年までボルフスブルクの監督として長谷部誠を指導していた。内田は長谷部からも情報を得ていると話していた。

「厳しいというのは聞きます。そういうところに飛びこんだ方がいいんじゃないですか。サッカーは10年できるかできないかだし、一回くらい行くのもいいと思う。僕は他の選手に比べると海外に行きたいという気持ちは強くないけど、仕事で海外赴任するようなものだとも思うし」

 とにもかくにも、内田はシャルケへの移籍に胸を躍らせていた。レベルの高い場所で鍛えれば、きっと、サッカー選手として成長できるという期待と確信があった。そのうえで、4年後のブラジルW杯では必ずピッチに立つという誓いも心に刻んでいた。

「選手として、人として強くなりたい。大きくなるというか、いい男になりたい」

 10年7月12日、内田はドイツに向かった。(同じ日、長友佑都もチェゼーナ移籍のためにイタリアに向かった)

当時から「子供が好き」と話していた(撮影:矢内由美子)
当時から「子供が好き」と話していた(撮影:矢内由美子)

■「死んでも、くたばっても、問題ない」

 それから1年がたった11年6月。シャルケでの1年目はリーグ戦もさることながら、欧州チャンピオンズリーグでクラブ史上初のベスト4入りに大きく貢献。5月にはポカールも獲っての凱旋帰国だった。アルベルト・ザッケローニ監督が率いる新生日本代表でも主力として定着していた内田は、国際親善試合キリンカップの代表に選ばれ、このように語った。

「この1年でどう変わったのかを見せたい。1試合ですべてを見せられるとは思いませんが、とにかくいいサッカーができればいい。これで本当にシーズンが終わりですから、ここで死んでも問題はない。くたばっても問題はないから、頑張りますよ」

 いつでも身を削る覚悟を持っている選手の言葉だった。

 20年8月23日、内田は引退セレモニーでこう言った。

「鹿島アントラーズというチームは、数多くのタイトルを獲ってきた裏で、多くの先輩が選手生命を削りながら勝つために努力していた。僕はその姿を見てきた。僕はその姿を、今の後輩に見せることができない」

 できなくなったとすれば、それは昨日まで欠かさずやってきたからに他ならない。思えば、ひとたび監督に指名されてピッチに立つとき、内田はどんな満身創痍の時であっても、勝利のための全力プレーを惜しまなかった。

 06年から20年まで14年半のプロ生活で、最後の5年間(しかも27歳から32歳というサッカー選手として最も充実しているはずの年齢)は、実働できない期間が長かった。しかし、引退発表を機に寄せられた数々の賛辞は、悲運とは明らかに不釣り合いな忍耐と努力を内田が重ねてきたことを、多くの人が知っているからこそのものだった。身を削り、鹿島の選手らしく背中で見せてきた、強く、大きく、いい男の引き際だった。

2009年南アフリカ遠征に参加した日本代表選手の記念撮影(全員、わかりますか?)(撮影:矢内由美子)
2009年南アフリカ遠征に参加した日本代表選手の記念撮影(全員、わかりますか?)(撮影:矢内由美子)
サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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