【スピードスケート】名門で鍛えた日々は財産。樋沙織が歩む第二の人生

16-17シーズンのW杯長野大会に出場した樋沙織(写真:アフロスポーツ)

■日本電産サンキョーから高崎健康福祉大学へ

 昨年12月に北海道帯広市「明治北海道十勝オーバル」で開催されたスピードスケート全日本スプリント選手権。平昌五輪女子チームパシュート金メダリストの佐藤綾乃と同じ、高崎健康福祉大学のワンピースを着て滑る選手の中に、思いがけない顔を見つけた。

 樋沙織(とい・さおり)は昨年3月まで実業団の名門、日本電産サンキョーに所属し、五輪出場を目指していた中距離スケーター。心機一転、学生となって氷上を駆る姿には、スケートに対する真摯な思いが溢れていた。

18年12月、帯広での全日本スプリント選手権に出場した樋沙織(撮影:矢内由美子)
18年12月、帯広での全日本スプリント選手権に出場した樋沙織(撮影:矢内由美子)

■群馬県嬬恋村出身

 樋は1994年5月、黒岩彰や黒岩敏幸ら多くのトップスケーターを輩出した群馬県嬬恋村で生まれた。小3から本格的にスケート競技を始め、嬬恋高校時代には1500mでインターハイを制覇。13年世界ジュニア選手権(イタリア・コルラボ)では同い年の高木美帆(当時帯広南商高)、2歳下の佐藤綾乃(当時釧路北陽高)とともに女子チームパシュートで優勝を飾った。

 高校に入学した頃は大学進学を考えていたが、長野五輪金メダルの清水宏保らを輩出した名門の日本電産サンキョーから声が掛かったことで、五輪を目指す決意を固めた。

 高校卒業後の13年春、日本電産サンキョーに入社。思いも寄らぬ貴重な経験を積むことになったのは、社会人2年目の14年春だった。同社がオランダのプロチームである「ニューバランス」に共同スポンサーとして参加し、高木菜那、ウイリアムソン師円と3人でオランダに拠点を移しての活動が始まった。スケート王国で鍛え抜き、世界トップのノウハウを学んだ期間は2年に及んだ。

 だが、この間にワールドカップ出場を果たすまでは行ったが、トップ選手たちとの距離はなかなか縮まらなかった。17年12月の平昌五輪代表選考レースでは、500m8位、1000m13位、1500m15位。五輪切符を射止めることは叶わず、それが一区切りとなった。そして、入社から5年が過ぎた18年春、第二の人生として高崎健康福祉大学へ入学した。

「高校を出るときは『勉強はいつでもできる』『体が動くうちは目指したいところがある』と考えて実業団に入りました。次は、スケートを続けて日本の大会に出場しながら、将来のことを考えて勉強も頑張りつつ、楽しんで現役生活を終えられればと思っています」

■王国オランダでの2年間の経験を

 日本電産サンキョーで過ごした日々は樋にとってどのようなものだったのだろうか。尋ねると、丁寧に言葉を選んでこう言った。

「高卒で何もわからない状態で入り、プロとしての自覚を学ばせてもらいました。いろいろな人との出会いも自分を育ててくれたと思います。人だけではなく、オランダに行ったこともそう。すべての出会いに感謝することの大切さを知りました」

 中長距離と短距離で練習メニューが違うため、つねに一緒というわけではなかったが、加藤条治や長島圭一郎という世界トップレベルの選手の横で感じたことも多かった。

「レベルがとても高く、陸トレからもうレベルが違うなと感じていました。練習に挑む姿勢や、生活面での考え方を聞かせていただいたことで、スケート選手として、また社会人としての姿勢を学ばせてもらいました」

 とりわけ、14年春から16年3月までともにオランダで過ごし、平昌五輪ではチームパシュートとマススタートの2冠を達成した高木菜那から受けた影響は大きかった。

「菜那さんとはずっと一緒に過ごさせていただいて、スケートに集中すること、自分の競技に責任を持つということを教わりました」

 会社を辞めて高崎健大に行く決意を告げると、高木菜那には「まだ競技を続けるのだから、またライバルだね。まだリンクで会えるのだから、一緒に頑張ろうね」と言われた。

 樋は「ライバルというところまで行きませんでしたけどね」と静かに微笑みながら、言葉を継いだ。

「結果的にはオリンピックに行けませんでしたが、自分の中ではほんとに宝物の日々。輝かしい日々でした」

 今村俊明監督にも気持ちよく送り出してもらったという。

「大学にということを告げた時には、樋が決めたならということで、背中を押していただいて、本当にありがたかったです。特に最後の1年間(17年4月から18年3月)はナショナルチームに入らなかったので、かなり密接に教えていただき、感謝でいっぱいです」

■小原悠里さんは憧れ

 実業団を経ての大学進学という異例の決断をうながした先駆者がいる。女子スピードスケート界の名門である富士急行時代に02年ソルトレークシティー五輪に出場した後、29歳で高崎健康福祉大学に入学し、発足したばかりのスケート部の選手として活躍しながら大学を卒業し、現在は日本スケート連盟ナショナルチームのスタッフを務める小原悠里さんの存在だ。

「小原さんが敷いてくれたレールの上に乗せていただいてると思っています。スケート選手としての経験に大学で得た知識を加えて世界を広げていっている小原さんは憧れです」

 今、樋が思い描いている次の夢は、スケートの指導者になることだ。

「私はスケートに育ててもらった人間。スケートに恩を感じています。だから、次の世代に教えられるようにと思って、今は教員になることを目指しています」

 群馬県高崎市にある高崎健康福祉大学は嬬恋村からも近く、「地元に貢献したい」という思いとも合致している。

 一流経営者である永守重信・日本電産会長の薫陶を受けて世界トップを目指す日本電産サンキョーでの日々。スケート王国オランダでの日々。そして、スケートで出会った多くの人々への感謝。それらすべてが樋の財産。思いをブレードに乗せて、樋は滑り続ける。

スケートへの真摯な思いを抱いている(撮影:矢内由美子)
スケートへの真摯な思いを抱いている(撮影:矢内由美子)