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フォガット、ハード・ドライヴィン・ロックンロールの半世紀と新作アルバムを語る【前編】

山崎智之音楽ライター
Foghat 2023 / courtesy of Foghat Records

豪快なハード・ドライヴィン・ロックンロールを貫いて半世紀。フォガットが新作アルバム『Sonic Mojo』を海外で発表した。

英国ブルース・バンド、サヴォイ・ブラウンのメンバーが1971年に独立して結成。土ボコリを上げて突っ走るロック・サウンドは本国よりもアメリカで支持され、デビュー間もなく活動拠点を移すことに。彼らの音楽は愛され続け、今日でも長距離ドライブでカー・ラジオを付けるとどこかの局から必ず1975年のヒット曲「スロー・ライド」が流れてくる。

長い活動期間で数多くのメンバー交替を経てきたバンドだが、唯一のオリジナル・メンバーとして屋台骨を支え続けるのがドラマーのロジャー・アールだ。1946年生まれ、77歳となる彼は今もなお健在。北米を中心に精力的にツアー活動を行い、アルバムでもエネルギーに溢れるプレイを聴かせている。

インタビューを始める前に「40年以上フォガットを聴いてきました。話すことが出来て光栄です」と挨拶すると、ロジャーは「すまないな、人生を台無しにしてしまって」とジョークを飛ばしてくる。全2回のインタビュー、まずは通算17作目となるスタジオ・アルバム『Sonic Mojo』について訊いてみよう。

なお今回の記事ではバンド名は日本で長く慣れ親しまれてきた“フォガット”表記とするが、実際の英語発音は“フォグハット”に近いもの。インタビュー中もずっと“フォグハット”と発音されていた。

(バンド写真でロジャーは右から2番目。)

Foghat『Sonic Mojo』ジャケット(Foghat Records/2023年11月10日発売予定)
Foghat『Sonic Mojo』ジャケット(Foghat Records/2023年11月10日発売予定)

<一日の仕事が終わると拍手と声援で迎えてもらうなんて最高じゃないか?>

●『Sonic Mojo』は前作『Under The Influence』(2016)から久しぶりの新作ですが、どのようにして作ったのですか?

ここ3、4年、とにかく全員でジャムをやって、たくさんの曲を書いたんだ。その音源を何日もかけて聴き直して、曲の出来映え、演奏の良さ、起承転結などを考慮しながらアルバムを完成させた。ブライアン(バセット)のギターを数箇所オーヴァーダビングしたり、ロドニー(オクイン)のベースを手直ししたけど、大半はスタジオでライヴ演奏したんだ。スコット(ホルト)のヴォーカルとギターもほとんどワン・テイクだよ。スコットとは2014年以来の知り合いなんだ。長いあいだフォガットをやってきて、歳を取ってきたし、誰かが急遽参加出来なくなることもある。そういうときのために助っ人に目星を付けておくんだ。スコットもそうだった。2014年にフロリダ州デランドのスタジオで初めてリハーサルしてみて、すぐ友達になったんだ。その頃ベーシストのクレイグ・マグレガーは存命だった。当時のシンガーはチャーリー・ヒューンだったけど、もし彼の都合がつかないときがあったら声をかけようと考えていたんだ。チャーリーが去年「引退する」と言ってきたんで、スコットに頼むのは自然な流れだった。

●他のメンバーにも助っ人候補がいるのですか?

うん、ショーは続けなければならないからね。2010年、私が腰の手術でツアーから離脱したとき、既に14、5回の公演が発表されていたんだ。それでロングアイランドの友人、ボビー・ロンディネリに代役を頼むことにした。彼も忙しいし、他にも目星を付けているドラマーが数人いるよ。フォガットは個々のミュージシャンの集まりではなく、音楽そのものだ。ファンが私たちの音楽を楽しめることが大事なんだ。

●2022年1月に肩の怪我をしたそうですが、体調はいかがですか?

おかげさまで回復して、ライヴやレコーディングにも復帰しているよ。90cmぐらい雪が降って、雪かきをしているときに転んで靱帯を痛めてしまったんだ。ツアーがブッキングされていたんで、そのまま約1年近くテーピングをして誤魔化さねばならなかった。でも去年12月にニューヨークの外科医に診てもらった。手術をして、順調に回復しているよ。エクササイズやストレッチ、自転車をこいだりして、良い状態だ。

●『Sonic Mojo』はフォガットの17枚目のアルバムだそうですが、53年で17枚というのは多いでしょうか?少ないでしょうか?

...どうだろうね(苦笑)?自分の人生で17枚のスタジオ・アルバムを作れたことは誇りにしている。ライヴ・アルバムを加えると30枚ぐらいになるのかな?もう何枚か判らなくなってしまったよ!自分の好きなことを仕事に出来て、本当に幸せな人生だったと思う。

●アルバムは全12曲の半分がオリジナル、半分がエルヴィス・プレスリーやバディ・ガイなどのカヴァー曲という構成ですが、どんなアルバムだと説明しますか?

フォガットのアルバムはどれもライヴの延長線上で、スタジオ・ジャムから発展してくんだ。誰かの有名な曲をプレイしていると、それが触媒になって新しい曲が生まれることもあるし、その曲の面白いアレンジに気付くこともある。それをギタリストでエンジニア、プロデューサーでもあるブライアンが捉えるんだ。彼は天才だよ。

●『Sonic Mojo』でプレイされているブルースやロックンロールのカヴァー曲は、かなりアレンジが異なっていますね。エルヴィス・プレスリーで知られる「Mean Woman Blues」がサンタナっぽかったり、ハウリン・ウルフの「How Many More Years」が若干落ち着いたアレンジになっていたりしていますが、意図的に有名なヴァージョンとは変えたのですか?

それらの曲やチャック・ベリーの「プロミスド・ランド」やB.B.キングの「シーズ・ダイナマイト」は子供の頃から聴き込んできて、体に馴染んでいるけど、ジャムを続けるうちに私たちなりの新しいヴァージョンが生まれたんだ。「Mean Woman Blues」がサンタナっぽいと言われるのは嬉しいね。カルロス・サンタナは世界最高のギタリストの1人だ。ただ、意図的に似せようとはしていない。レコード会社のお偉方やプロデューサーに言われたって、やりたくなければ首を縦に振らないよ。

●50年以上バンドをやっていると、外部の人間の意見を取り入れるのは難しいのでは?

うん、頭が硬くなるからね(苦笑)。でもキャリアを通じて、フォガットは良いプロデューサーに恵まれてきたよ。ファースト・アルバム『フォガット』(1972)ではデイヴ・エドモンズにプロデュースを頼んだけど、最高の仕事をしてくれたね。幾つもアイディアを出してくれたし、数曲でギターとピアノも弾いてくれた。『フール・フォー・ザ・シティ』(1975)や『フォガット・ライヴ』(1977)をプロデュースしたニック・ジェイムスンもバンドの演奏のベストな部分を引き出してくれたよ。近年の作品ではギタリストのブライアン・バセットがプロデューサーも務めてくれる。彼は30年以上フロリダでいろんなアーティストを手がけてきて、レコーディングのツボを心得ているんだ。

●フォガットは1971年の結成以来、何度もメンバー交替を経てきましたが、ひとつの音楽スタイルを貫いてきました。唯一の創設メンバーとして、あなたが音楽性のリーダーシップを取ってきたといえるでしょうか?

ハハハ、私はしつこい汚れみたいなものなんだ。いつになっても辞めないんだよ(苦笑)。実際には他のメンバーに指図なんてしない。彼らだってフォガットに加入したら、どんな音楽をやるべきか判っている。それに彼らは元々“ロンサム”デイヴ・ペヴェレット(ヴォーカル、ギター)やロッド・プライス(ギター)と似たスタイルとアティテュードをしている。それにブライアンはもう27年間バンドにいるし、彼らと一緒に活動してきたから、フォガットの音楽がどのようにプレイされるべきか熟知しているんだ。ロドニー・オクインはさまざまなバンドでプレイしてきて、チームを円滑に運営していくことが出来る。全員が友達だし、うまく行っているよ。スコットはフォガットでやることについて「これ以上の仕事はない」と言っていた。私も同じ意見だよ。一日の仕事が終わると拍手と声援で迎えてもらうなんて最高じゃないか?

Foghat 2023 / courtesy of Foghat Records
Foghat 2023 / courtesy of Foghat Records

<1960年代の英国ブルースは活気に溢れてエキサイティングだった>

●アルバムの「She’s A Little Bit Of Everything」「Drivin’ On」「Time Slips Away」ではサヴォイ・ブラウン時代の仲間だったキム・シモンズと共作しています。キムは2022年12月13日に亡くなってしまいましたが、彼とはずっと連絡を取り合っていましたか?

私や“ロンサム”デイヴは1971年にサヴォイ・ブラウンを辞めてフォガットを結成して、アメリカのレコード会社(“ベアズヴィル”)と契約して渡米したんだ。しばらくキムと会う機会がなかったけど、1976年頃に私の住むロングアイランドに彼がツアーで来たんで、自宅に招いた。デイヴも呼んで、3人で1日を過ごしたよ。その後、彼にツアーのブッキング・エージェントを紹介したこともあるし、一緒にショーをやったこともある。お互いのステージに上がって共演したり、良い関係だったよ。キムはフォガットの前作『Under The Influence』(2016)で数曲ギターを弾いてくれたんだ。その後「一緒に曲を書こうよ」と話した。それらが『Sonic Mojo』に収録した曲だったんだ。本当は彼にギターで参加してもらいたかったけどコロナ禍、それから彼が病気になってしまったことで、実現しなかったんだ。キムが亡くなる2ヶ月ぐらい前に話したのが最後になってしまった。彼は最高のブルース・ギタリストでソングライターだった。彼と共作した曲はアルバムでも気に入っているし、最後にまた一緒にやれたことを誇りにしているよ。

●サヴォイ・ブラウンからメンバーが大量離脱してフォガットを結成、キムは1人取り残されてしまったわけですが、わだかまりはありませんでしたか?

なかったよ。元はといえば当時のベーシスト、トニー・スティーヴンズがサヴォイ・ブラウンから解雇されたことが発端だった。キムはバンドに変化が必要だと考えていたようだったけど、新しいメンバーが見つかるまで私たちは留まるつもりだったんだ。でも当時のキムのマネージャーが「もし辞めたらイギリスでもアメリカでも仕事を出来ないようにする」と高圧的な態度を取ってきた。幸いボブ・ディランなどのマネージャーだったアルバート・グロスマンがロンドンまでバンドを見に来て、マネージャーを買って出てくれた。それで私たちはフォガットを始動させることが出来たんだ。サヴォイ・ブラウンはイギリスやアメリカでは成功を収めていたけど、ヨーロッパでは今ひとつの人気で、ギャラも良くなかった。週給60ドルで、印税の配分ももらえなかったんだ。みんな不満を抱いていたんだよ。

●キム・シモンズはどんな人でしたか?

彼は知的で聡明な人だったよ。とても寛大で、一緒に音楽をやって楽しかった。彼を友人と呼ぶことが出来て光栄だし、いなくなって本当に悲しい。彼を失ったことで、自分も残された時間を有効に使わねばならないという思いを新たにしたよ。面倒臭い、もう釣りにでも出かけたいというときもあるけど、あと1枚でも2枚でも作品を作れたら最高だね。

●サヴォイ・ブラウンはフリートウッド・マックやチキン・シャックと共に1960年代後半イギリスのブルース・ブームを代表するバンドのひとつでしたが、当時のことをどのように覚えていますか?

とても活気に溢れたシーンだった。特にフリートウッド・マックは大好きだったよ。彼らのライヴのチケットは瞬時にソールドアウトになってしまうから、彼らを見ることが出来るのは一緒にショーをやるときだけだった。それ以前、まだサヴォイ・ブラウンに入る前には、ザ・ローリング・ストーンズをよく見に行った。彼らは私が住んでいるところから1マイルぐらい近所にあった“イール・パイ・アイランド”、それからステーション・ホテルの“クロウダディ・クラブ”、あと“リッキー・ティック”、“マーキー・クラブ”などでライヴをやった。毎日がエキサイティングだったね。懐かしいよ。

●ブルース・ブームの花形スター・ギタリストだったエリック・クラプトンやピーター・グリーンなどと交流はありましたか?

彼らとは会ったことがないけど、ミック・フリートウッドとは2回ほど話したことがある。彼らとは2歳ぐらい年下だったんだ。ミック・ジャガーも3歳上だったかな?70歳を超すとあまり関係ないけど、若いときは1歳の差がとてつもなく大きいものなんだよ。サヴォイ・ブラウンに加入する前、ザ・フーとジャムをしたことがあるよ。キース・ムーンとはブライトンかどこかのクラブのショーで一緒になったことがある。ジルジャンのシンバルを何枚も持ち込んできて、試していたんだ。それで気に入らないと私に「これ、要る?あげるよ」と言ってくれた。結局3枚もらったかな。ジルジャンのシンバルといえば1枚が3〜400ドルぐらいするんだ。私は週給12ポンド半で妻と子供を養わなければならないから、とても有り難かったよ。そのときフロアには2人だけだったから、いろいろ話したのを覚えている。まだ駆け出しのミュージシャンだった私に、いろんなアドバイスをしてくれたよ。クレイジーなロックンロール・マッドマンというイメージのあるキースだけど、温かみのある人だったね。彼には感謝している。

●あなたの兄上コリン・アールが「Wish I’d a Been There」を共作していますが、彼は元マンゴ・ジェリーですよね。ピーター・グリーンは1980年代にマンゴ・ジェリーのレイ・ドーセットと“カトマンズ”プロジェクトを組んでいましたが、あなたと何らかの接点はなかったのですか?

ピーターのことは知らなかったけどレイ・ドーセットとは私が16歳ぐらい、初めてのバンドで一緒だったんだ。トランプスというR&Bバンドで、ベーシストは親友のデイヴ・ハッチキンスだった、ウィンザーの“リッキー・ティック”で最初のショーをやってから3年ぐらい一緒にやって、それから私はキム・シモンズとクリス・ユールデンと出会って、サヴォイ・ブラウンでやることになったんだ。去年の夏、私の孫娘の結婚式に出席するために久々にイギリスに戻ったんだ。デイヴと会って、レイとも2時間ぐらい話したよ。

●あなたと兄上との関係はどんなものでしたか?

私が11歳ぐらいのとき、いろんな音楽を教えてくれたのは兄だった。私は学校が終わると週3回、パン屋でアルバイトをやっていた。その頃、兄はプロのミュージシャンとして活動するようになって、いろんなレコードを買うようになったんだ。ジョニー・キャッシュ、ジェリー・リー・ルイス、エルヴィス・プレスリーとかね。うちの親も音楽好きだった。父親はアストン・マーチンの自動車工場で働きながら、趣味でファッツ・ウォーラーみたいなジャズ・ピアノを弾いていた。私が13歳のときにジェリー・リー・ルイスがイギリスに来たんで、ライヴに連れていってもらったんだ。母親によると、私はその日から人間が一変したらしいよ!

●フォガットで2000年から2022年までシンガーを務めたチャーリー・ヒューンは1981年から1982年にかけてゲイリー・ムーアのバンドにいましたが、ゲイリーもピーター・グリーンに見出されてイギリスでデビューしたという縁がありますね。

うん、みんなどこかで繋がっているんだ。チャーリーはフォガットのシンガーとリズム・ギタリストとして長年バンドを引っ張ってくれた。彼が疲れていたのは薄々判っていたけど、マネージャーへのメールで「引退する」と言ってきたんだ。もう20年以上一緒にやった仲間の私に連絡をくれなかったのは寂しかったね。5日後にクルーズの船上ライヴが決まっていたし、さすがに焦ったよ。幸いスコット・ホルトに連絡がついて、急遽参加してもらうことになった。スコットはそれからずっとバンドの一員だ。

●チャーリーが脱退する前、彼との関係は問題がなかったのですか?

きわめて良好だったよ。今から振り返ると彼は関節炎や脚の状態が良くなかったし、3日連続でライヴをやると喉が辛そうだった。引退するという決断を下すのはそうとう悩んだ結果だと思う。私だって手や足、肩の手術をしてきたし、あちこちが悪いけど、音楽は人生そのものだ。引退することはとてつもなく大きな苦痛を伴うだろう。それをしたチャーリーには敬意と感謝しかないよ。

後編記事ではフォガットの豊潤な軌跡や“幻”の日本公演、ジミ・ヘンドリックスとのセッションなどについて、さらに深く掘り下げて話してもらおう。

【バンド公式ウェブサイト】

https://foghat.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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