フォガットが語るロックンロール秘話/“幻”の日本公演、ジミ・ヘンドリックスとの共演【後編】
半世紀を超えてロックンロール街道を爆走、ニュー・アルバム『Sonic Mojo』を2023年11月に発表するフォガットの唯一の創設メンバー、ドラマーのロジャー・アールへのインタビュー後編。
前編記事では新作について、そして1960年代後半のブリティッシュ・ブルース・ブームについてロジャーに語ってもらったが、後編ではフォガットのライヴ・パフォーマンス、“幻”の日本公演、ジミ・ヘンドリックスとのセッションなどについて掘り下げて訊いた。
<ロックンロールは世界中の音楽がアメリカでひとつに融合されたもの>
●フォガットのライヴがどのようなものか、日本のファンに教えて下さい。
フォガットはロックンロール・ブルース・バンドだ。バンド全員がティーンエイジャーの頃からステージに立って、お客さんと一緒に音楽を楽しんできた。これまで優れたミュージシャン達がバンドに在籍してきたけど、今のラインアップは一緒にやって一番楽しい。『Sonic Mojo』を聴いてもらえば、バンドにある連帯感が伝わってくるだろう。スコット・ホルトは才能溢れるシンガーであるのに加えて、バディ・ガイのバンドで10年間ギターを弾いていたこともあるんだ。ブライアン・バセットとのコンビネーションもばっちりだよ。「フォガットのライヴを見た」と孫に自慢出来るようなバンドだ。
●「スロー・ライド」や「フール・フォー・ザ・シティ」などのクラシックスはおそらく数千回プレイしてきたと思われますが、飽きることはありませんか?
それらの曲はフォガットの代表曲だし、バンドが続く限りプレイし続けるだろう。毎晩ちょっとした変化を加えているし、同じ曲でもファンの反応は毎晩異なる。飽きることはないよ。他にブルース曲をやったり、常に新鮮なショーを心がけているんだ。もしジャパン・ツアーが決まったら、聴きたい曲をリクエストして欲しい。ウェブサイトで受け付けているし、SNS経由で送ってきてもいいよ!バンドがこれだけ続いてきたのはファンのおかげなんだ。だから彼らの求めるものを提供するのが我々の義務なんだよ。フォガット・クラシックスは死ぬまでプレイし続けるよ。「スロー・ライド」はベーシストのニック・ジェイムスンが加入したすぐ後(1975年)リハーサル・スペースでジャムをやって書いたんだ。基本的にはジョン・リー・フッカー風のリフだったけど、シャッフルではなく、よりストレートなビートを叩いて、それに“ロンサム”デイヴが歌詞を乗せて完成させた。イントロのドラム・ビートはニックのアイディアだったんだ。とにかくドカン!と行けってね。マジックな瞬間だったよ。
●サヴォイ・ブラウンは『ゲッティング・トゥ・ザ・ポイント』(1968)でウィリー・ディクスンの「ユー・ニード・ラヴ」をプレイしています。同じ曲をスモール・フェイセズも演っていますが、そのどちらかがレッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛」に影響を与えたといえるでしょうか?
うーん、どうだろう?マディ・ウォーターズで有名な曲だし、サヴォイ・ブラウンがやらなくてもレッド・ツェッペリンはいずれプレイしていたんじゃないかな。かなりアレンジも異なるしね。まあ私たちはちゃんとウィリーを作曲者にクレジットしているぶん、正直者であることは認めて欲しい(笑)。この曲ではドラム・ソロをフィーチュアしているんだ。まだ私は加入したばかりで、緊張したけれど嬉しかったよ。レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムは史上最高のロックンロール・ドラマーだった。とてつもなく個性的でパワフルだったね。
●ジミ・ヘンドリックスと組む話があったそうですが、それはいつ、どんな経緯だったのですか?
1966年かな、サヴォイ・ブラウンに加入する前のことだよ。ジミのマネージャーだったチャス・チャンドラーが新バンドのメンバー募集を出していたんだ。当時18歳だった私はそれに応募した。そのバンドはロンドンのクラブで数ヶ月プレイしたけど人気が出ず、解散した。でもチャスは私の電話番号を捨てずにいたんだ。それで「ジミ・ヘンドリックスって知っている?」と訊いてきた。ジミはロンドン中で評判で、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ピート・タウンゼントなど、誰もが彼の噂をしていた。オーディションを受けないか?と言われて、父親の車を借りて昼休みにスタジオに行ったのを覚えているよ。ロンドンのピカデリー通りにあった“バードランド”だったと思う。オーディションを受けに来た12人ぐらいのドラマーが雨の中、外で待たされていたんだ。ランチの時間になってジミが出てきて、書いたばかりの新曲について話し出した。スターぶったりせず、とても地に足の着いた人だったよ。オーディションは課題曲があるわけではなく、彼のギターに合わせて叩くというものだった。自分が何をすれば良いか判らず、彼のギターに吹っ飛ばされて、正直どうしていいか判らなかったんだ。チャック・ベリーとボブ・ディランの曲に合わせて40分ぐらいプレイしたかな。結局選ばれたのはミッチ・ミッチェルだった。私はまだ若くて経験が浅いことを自覚していたし、それほどガッカリはしなかった。ジミとはその後、ニューヨークでスティーヴ・ポールがやっていた“ザ・シーン”クラブでもジャムをやったことがあるよ。彼と友人になる機会はなかったけど、他人に対する態度などからビューティフルな人間であることが判ったし、彼が亡くなったときは悲しかった。
●1968年から1971年に在籍したサヴォイ・ブラウンではどのようなことを学びましたか?
プロのミュージシャンとして知っておくべきことのすべてをサヴォイ・ブラウンから学んだ。楽器の演奏の仕方、いかにしてクリエイティヴになるか、どうやってお客さんと接点を持つか... ビリー・ジョエルなどはソロ・パフォーマーとして一流だけど、サヴォイ・ブラウンやフォガットは4人でひとつの大きなものを創り上げていく。バンドのメンバーがお互いを盛り上げて、音楽をスペシャルなものにしていくんだ。
●ブルースという音楽スタイルからどんな影響を受けましたか?
私たちがプレイするロックンロールは世界中の音楽がアメリカでひとつに融合されたものなんだ。アフリカから連れてこられた人たち、イングランドやアイルランド、スコットランド、おそらくフランスやスペインからの移民...彼らの音楽すべてが混ざってカントリーやヒルビリー、ジャズ、ビバップ、そして我々がロックンロールと呼ぶ音楽が生まれたんだよ。フォガットの音楽において、ブルースは極めて重要なものだ。過去・現在・未来において、ブルースを抜きにして語ることは出来ないよ。
<鎌倉大仏を見に行こうとして、東京の駅で迷ったことがある>
●Foghatというバンド名の由来についてはさまざまな説がありますが、本当はどんな意味があるのですか?
“ロンサム”デイヴが13、4歳の頃、兄のジョンと“スクラブル”ゲーム(アルファベットの文字を並べて単語を作っていくボードゲーム)で遊んでいたんだ。それでFoghatという単語を並べた。ジョンは「そんな単語、ないよ!」と主張したけど、デイヴは「絶対ある!」と主張した。それから何年も経って、Foghatはバンド名として実在する単語になったんだ(笑)!デイヴが私たちの前でFoghatという語句を口にしたのは、サヴォイ・ブラウンのツアー・バスの中だった。「バンド全員にニックネームをつけよう!」ということになったんだ。私は何だか判らないけど“スキンズ・ウィリー”だった。クリス・ユールデンは“ルーサー・フォガット”と名付けられて、あまり気に入っていないようだったね。デイヴとキム・シモンズは「Jacksman And The Incredible Gnome」というインストゥルメンタル曲を書いたばかりだったから、デイヴが“ジャックスマン”。彼のミドル・ネームがジャックということもあったしね。キムは“インクレディブル・ノーム(=驚異の小鬼)”というのが嫌だったみたいだった(苦笑)。私がfoghatという言葉を聞いたのはそれが初めてだった。アルバム『フォガット』の裏ジャケットにはデイヴが描いた、帽子から霧が噴き出す男が描かれている。“fog+hat”なんだよ。彼はイラストのセンスがあった。私もサヴォイ・ブラウンに入る前はパッケージ・デザインをやったりしていた。
●“帽子の中で霧が立ちこめている”というバンド名から、大麻などを連想するファンもいるようですが...。
ああ、何度か言われたことがあるよ。フォガットはストーナー・バンドではないんだ。ただのロックロール・ブルース・バンドだよ。
●フォガットのライヴはあなたの故郷イギリスでもかなりご無沙汰ですよね?
そうなんだよ!ファースト・アルバムが出た後、キャプテン・ビーフハートと3週間の北米ツアーに出たんだ。そうしたら「アイ・ジャスト・ウォント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユー」がラジオで好調だというんで、アメリカに腰を落ち着けることになった。1973年にリトル・フィートとイギリスでショーをやって、それっきりなんだ(注:1976年にユーライア・ヒープのサポートとしてロンドン公演を行っている筈)。“ランブリン・マン・フェア”というフェスに呼ばれていたけど2020年と2021年、2年連続で中止になってしまった。ヨーロッパ大陸のフェスティバルにはたまに招かれて、コロナ禍の前にもドイツやベルギーに行ったけど、北米がメインだよ。
●フォガットの日本公演が実現するのを楽しみに待っています。
フォガットは1度だけ日本に行ったことがあるんだ。ただ普通のライヴ会場でプレイするのではなく、米軍基地だった(1990年11月、厚木基地)。すごく楽しい経験だったしお客さんも盛り上がってくれたけど、もっと日本の人々や文化にも触れてみたかった。オフ日に巨大な仏像を見に行ったのが思い出に残っているよ(鎌倉大仏と思われる)。電車で行こうとして、東京の駅で迷ったんだ。その場にいた中年ぐらいの女性に訊いたら親切に教えてくれて、お嬢さんの結婚記念写真まで見せてくれた。とても快い経験だったね。米軍基地でショーをやったことで本格的なジャパン・ツアーに繋がっていくことを期待したけど、それから30年以上が経って、まだ実現していない。まだバンドは続いているし、呼んでくれるのを待っているよ。デイヴがよく言っていたんだ。「Rock till you drop(死ぬまでロックし続ける)」ってね。
●貴重なインタビューをどうも有り難うございました!
君の名前はトモユキだよね?私はサッカーでアーセナルのサポーターなんだけど、似た名前の日本人プレイヤーがいるよ(おそらく冨安健洋のこと)。彼は素晴らしいディフェンダーで、チームに多大な貢献をしている。応援しているよ!
【バンド公式ウェブサイト】