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英国ヘヴィ・メタルを受け継ぐ。ダイアモンド・ヘッド/ブライアン・タトラーが語るNWOBHM神話

山崎智之音楽ライター
Psycho Las Vegas 2017 / pic yamazaki666

ダイアモンド・ヘッドは1970年代末から1980年代初頭のイギリスにおけるヘヴィ・メタル・ブーム“ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル(以下NWOBHM)”の代表バンドのひとつだ。

メタリカが「アム・アイ・イーヴル?」「ザ・プリンス」を筆頭に彼らの楽曲を複数カヴァーするなど、若い世代のメタル・リスナーにもレジェンドとして敬愛される彼らだが、ギタリストのブライアン・タトラーを中心に今日も活動を続ける現役バンドである。

そのブライアンがサクソンのギタリストとして2023年のツアーに同行するというニュースは、世界のメタル・コミュニティを揺るがした。NWOBHM出身の大物の合体はまさにドリーム・グループの実現であり、日本公演の発表を心待ちにするファンも多いだろう。

久々の来日を祈願して、ブライアンのインタビューを公開する。2016年に行われながら、諸事情により未公開となっていた彼の談話。歴史の生き証人によるNWOBHM神話の封印が解かれる。

Diamond Head『Borrowed Time』ジャケット(1982年/ユニバーサル 現在発売中)
Diamond Head『Borrowed Time』ジャケット(1982年/ユニバーサル 現在発売中)

<俺たちがメタリカにボールをパスして、彼らがゴールに向かって突っ走った>

●2008年2月に初の来日公演を行いましたが、どんなことを覚えていますか?

まさに夢が叶った瞬間だった。日本を訪れるのは初めてだったんだ。我々の音楽が長いあいだ支持されてきたことは知っていたけど、ずっとタイミングが合わなかった。ディープ・パープルの『ライヴ・イン・ジャパン』やマイケル・シェンカー・グループの『飛翔伝説 MSG武道館ライヴ』など、日本でレコーディングされたライヴ・アルバムの名盤がいくつもあるし、ずっと憧れだったんだ。ファンのみんな、関係者たちも温かく迎えてくれたよ。20年以上前からの熱心な日本人ファンがいて、何度もイギリスに見に来ていたんだ。「いつか日本で会おう!」という彼との約束が実現したのも嬉しかった。ライヴは東京のみで、もっといろんな都市でやりたかったけど、それは次回の楽しみにしておくよ。

●ダイアモンド・ヘッドは40年以上のあいだ英国ヘヴィ・メタルの人気バンドとして活動、メンバーが交替しながらもその世界観を継承してきました。作曲だけでなく、歌詞もあなたが書いてきたのですか?

いや、歌詞は歴代のシンガーに任せてきた。俺が音楽のパレットを用意して、彼らの思い描くヴィジョンを歌ってもらうんだ。俺はもう40年以上このバンドと共に生きてきたし、もう“ダイアモンド・ヘッドらしさ”が何なのか判らなかったりする。だからシンガーに委ねるのがベストなんだよ。

●ダイアモンド・ヘッドの音楽性にはどんな特徴があるといえるでしょうか?

俺がすべての曲を書いているし、特定の音遣いやコード進行があることは確かだね。レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ディープ・パープルなどからの影響はもちろんだけど、兄が音楽好きだから、子供の頃からさまざまな音楽を聴いてきたんだ。カン、ジェントル・ジャイアント、アモン・デュール、テン・イヤーズ・アフター、エマースン・レイク&パーマー、ジェネシス、ビー・バップ・デラックスなどのライヴに連れていってくれたよ。1970年代は間違いなく、俺にとって音楽のベスト・ディケイドだった。それらのすべてが鍋の中でドロドロに溶けて、自分の音楽性を形作っているんだ。

●バンドが結成された1970年代後半はプログレッシヴ・ロックがピークを超して、パンク・ロックが台頭した時期でしたが、そんな時代性から影響を受けましたか?

もちろん!ダイアモンド・ヘッドの音楽にはプログレッシヴ・ロックからの影響がある。ジェネシスやイエスとかね。ただ、プログレッシヴ・ロックは大仰になり過ぎて、呑み込むことが難しくなってきた。エマーソン、レイク&パーマーの3枚組ライヴ・アルバムはさすがに聴き通せなかったよ。そんなとき、イギリスでパンク・ロックのブームが起こったんだ。俺は17歳で、ジョン・ピールがDJをやっているラジオ番組は欠かさず聴いていた。ザ・ダムドの「ニュー・ローズ」からスピード感と怒りエネルギーとD.I.Y.のアティテュードを学んだ。自分でライヴのブッキングをして、Tシャツを作って、ファンクラブを運営したりね。スティッフ・リトル・フィンガーズが自主レーベルから作品をリリースして、成功を収めたことも刺激となった。レコード会社と契約出来ないなら自分で出せばいいじゃないか、というメンタリティが拡がって、アイアン・メイデンやデフ・レパードもシングル『サウンドハウス・テープス』を自主リリースしたんだ。

●2010年に英“BBC”で放映されたテレビ番組『Heavy Metal Britannia』ではヘヴィ・メタルの生き証人として出演、ブラック・サバスの「パラノイド」「悪魔のしるし」、レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛」、ディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」などのギター・リフを弾いていましたね。

うん、あの番組でインタビューされて、「いくつかハード・ロック/ヘヴィ・メタルの代表的なリフを弾いて欲しい」と頼まれたんだ。どれも身体に馴染んでいるリフだし、すぐその場で弾いたよ。番組のあちこちで俺のシーンが使われていて、驚いたけど嬉しかったね。おそらく“メタリカに影響を与えたバンド”という扱いだったと思うけど、自伝『Am I Evil?』を書いたことで、ヘヴィ・メタルの歴史について語れると思われたのかも知れない。

●2011年にメタリカのサンフランシスコ公演でダイアモンド・ヘッドの初代シンガーだったショーン・ハリスと再会、共演しましたが、彼とは今でも交流がありますか?

別々の人生を歩んでいるし、あまり接点がないんだ。決して仲が悪いわけではないし、メタリカとのライヴでは久しぶりに会えて嬉しかったよ。ショーンはホーム・レコーディングを続けていて、彼の奥さんによるとアルバム30枚ぶんのトラックがあるらしい。「そんなに溜め込んでいないで発表しなよ!」と言ったよ(苦笑)。彼は素晴らしいシンガーだし、作品をリリースしないのは大きな損失だってね。数マイル離れたところに住んでいるから出くわすことがあるし、「よお!」って感じで世間話をするよ。

(ショーンは近年YouTubeチャンネルを開設している https://www.youtube.com/@seanharrismusic

●ダイアモンド・ヘッドのオールド・ファンからショーンとの再合体を希望する声もあると思いますが、その可能性はあるでしょうか?

そういうファンの声は耳に入ってくるけど、今のところは考えられないな。彼がバンドを去ってから(2004年)長い年月が経ったし、そのあいだ俺はダイアモンド・ヘッドを続けてきた。ずっと別の道を歩んできたんだ。だからメタリカとのライヴのように単発のショーだったらあり得るけど、バンドとして活動していくことはないだろうね。

Brian Tatler 2022
Brian Tatler 2022写真:REX/アフロ

●ダイアモンド・ヘッドは近作においても初期のハードなサウンドに新たな解釈を加えていますが、『カンタベリー』(1983)の「カンタベリー」や「ナイト・オブ・ザ・ソード」などのアルビオン(英国)趣味、あるいは「イシュマエル」の異国情緒はどのように受け継がれていますか?

イングランドに生まれ育つと多かれ少なかれ誰でも“英国的”な音を耳にして育つものだけど、ハード・ロックでそれをやるバンドがいなかった。それで自分たちの個性になると考えたんだ。『カンタベリー』では「トゥ・ザ・デヴィル・ヒズ・デュー」もやっているし、バンドの大きな個性のひとつになっていると思う。そんなスタイルは最近でも何度か試みてきて、『ダイアモンド・ヘッド』(2016)の「サイレンス」などで聴くことが出来るよ。

●『偽りの時』(1982)から『カンタベリー』への変化がドラスティックなものだったため、バンドがそれからどこに向かっていくのだろう?...という大きな期待感がありました。

うん、次のアルバムの制作に入っていたんだ。5曲をレコーディングしたけど、完成させることは出来なかった。“MCAレコーズ”との契約を切られたことで、その5曲をいろんなレコード会社に聴かせて交渉したけど、契約には至らなかったんだ。それで1985年の初め、バンドは自然消滅に近い形で活動を停止した。新しい曲の音楽性は、よりポップでコマーシャルなものだったんだ。それまでやってきたこととは違うアプローチでやりたかった。俺のギター・リフから曲を書くのではなく、ショーンの書いたコード進行からスタートしたものもあった。彼はTレックスみたいなバンドが好きだったし、それに1980年的なモダンなフレイヴァーを加えようとしたんだ。それらのアイディアの一部は、彼がロビン・ジョージと結成したノートリアスのアルバム(1990)で使われたと思う。かなり異なったものに変化を遂げていたけどね。1984年のアルバム用の曲を書いている頃、メタリカのシングル「クリーピング・デス」が送られてきて、B面で俺たちの「アム・アイ・イーヴル?」をカヴァーしているのを聴いて、「これって俺たちの曲?」と不思議に思ったのを覚えている。あまりに自分たちの音楽性が変化していたんだ。俺たちがメタリカにボールをパスして、彼らがゴールに向かって突っ走り始めたのを感じたよ。

●“MCA”でダイアモンド・ヘッドとレーベル仲間だったタイガース・オブ・パンタンもヘヴィ・メタルからよりコマーシャルな方向にシフトしていきましたが、そんなポップ化はレーベルの意向もあったのでしょうか?

タイガースの事情はまったく知らないけど、俺たちが“MCA”と契約したとき、シングル向きの曲を求められたのは事実だ。「コール・ミー」あたりは彼らの要望に応えた曲だった。ヒットはしなかったけどね(苦笑)。1984年のアルバムについて言えば、その年の1月に“MCA”との契約は切れていたし、介入はなかった。コマーシャルな音楽性に向かうことはバンドの意思だったよ。もちろんコマーシャルといってもヒット・チャート狙いの子供向けのポップではなく、成熟した大人が楽しめるものにしたかった。そういう意味では『カンタベリー』の路線を一歩押し進めたものになる筈だったんだ。

●当時の“MCA”のA&R担当はチャーリー・エアーという人でしたか?彼はタイガースやニック・カーショウの担当でもありましたが、音楽性やプロデューサーの人選でアーティストとの意見が食い違うこともあったそうですね。

まあ、それがA&Rという仕事だからね。アーティストの作品をどうやったら売ることが出来るかを考えるんだ。残念ながらダイアモンド・ヘッドはアイアン・メイデンやデフ・レパードのようにセールス面での成功を収めることが出来なかった。それで“MCA”との関係はアルバム2枚のみで終わったんだ。でも自分たちの音楽を追求した結果だし、後悔はないよ。今になっても世界中のファンに聴いてもらえて、日本のジャーナリストにインタビューされたりする(笑)。とても充実した人生を歩むことが出来たと思う。

Diamond Head『Canterbury』ジャケット(1983年/ユニバーサル 現在発売中)
Diamond Head『Canterbury』ジャケット(1983年/ユニバーサル 現在発売中)

<“NWOBHM次世代の大物”だった>

●NWOBHMというムーヴメントとはどのように関わっていましたか?

当時は誰もがレコード会社と契約しようとしたけど、メジャーの数は限られていたし、インディーズもほとんど存在しなかった。『サウンズ』紙がNWOBHMという呼び名を作って、頻繁に取り上げるようになってから、メジャーが若手バンドと契約するようになったんだ。“EMI”がアイアン・メイデン、“フォノグラム”がデフ・レパードとかね。俺たちは一歩出遅れて、ファースト・アルバムを自主リリースすることになった。その評判を聞きつけた“MCA”が声をかけてきて、俺たちもメジャー入りすることが出来たんだ。

●NWOBHMのバンドのあいだに連帯感はありましたか?

うーん、どうだろうな。他のバンド同士はあったのかも知れない。俺たちは我が道を行く感じだった。エンジェル・ウィッチやガールスクール、ガールなどと面識はあったけど、オフ日に飲みに行くとかではなかった。アイアン・メイデンがヘッドライナー、その前にプレイング・マンティス、オープニング・バンドがダイアモンド・ヘッドというショーをやったことがあったよ。俺たちの持ち時間は20分だった。両バンドとも最初からドラム・キットをステージ上に置いていたから、演奏するスペースが狭くて、ほとんど動けなかったのを覚えている(苦笑)!

●1982年、『偽りの時』のリリースで“NWOBHMで次に来るのはダイアモンド・ヘッドだ!”みたいな空気がありましたが、メジャーの“MCA”との契約は好条件でしたか?

まあ悪くはなかったけど、決して巨額のマネーをオファーされたわけでもなかったよ。イギリス全土をツアーして回って、ようやく生活することが出来たんだ。でも音楽新聞『サウンズ』やラジオ番組『フライデイ・ロック・ショー』で“次世代の大物”扱いされたのは嬉しかったし、レコードやライヴの売り上げに拍車をかけることになった。『偽りの時』は全英チャートのトップ30入りしたんだ。編集者のジェフ・バートンやDJのトミー・ヴァンスには感謝しているよ。『フライデイ・ロック・ショー』はNWOBHMの重要な要素のひとつで、聴いていない奴はモグリだった(笑)。

●サクソンもNWOBHMアンセム「デニム・アンド・レザー」で「毎週金曜日、ラジオを聴いていたか?」と歌っていましたね。

当時俺は既にダイアモンド・ヘッドでライヴをやっていたし、金曜の夜はかき入れ時だから、あまり聴くことが出来なかったけどね。若いファンはオンエアされる曲のメモを取って、翌日レコード店に走っていったんだ。ただ、『フライデイ・ロック・ショー』には功罪があった。ハード・ロックやヘヴィ・メタルのファンは毎週金曜の夜、ラジオにかじりついていたから、友達や女の子と出歩かない内向的な人々というイメージが定着してしまったんだ。

●NWOBHMで抜きん出ていると思ったバンドは?

デフ・レパードは初めて見たときから特別なものを感じたね。「ゲッチャ・ロックス・オフ」「ウェイステッド」の頃から好きだったけど、まさかあれほど大物になるとは思いもしなかった。それ以外は自分たちと一緒にライヴをやったバンドぐらいしか聴いていなかったよ。ただ自分が信じる音楽をやっていただけで、特定のムーヴメントに属している意識はなかったんだ。“NWOBHM次世代の大物”と言われても、そのNWOBHMが短期間のトレンドで、すぐに終わってしまったしね。イギリスのロック・バンドで好きだったのは、もっと若い世代のイット・バイツやザ・ワイルドハーツ、それからイギリスではないけどキングズXだった。彼らは1万人収容のライヴ会場でショーをやるのが相応しい、最高のバンドだよ!あとはNWOBHMよりちょっと前のローン・スターが好きだったね。

●往年のダイアモンド・ヘッド・クラシックスをライヴでプレイするのはどんな気分ですか?

いつも楽しんでいるよ。どれも良い曲だと思うし、それらを自分が書いたことを誇りに感じる。「アム・アイ・イーヴル?」のイントロを弾くと、会場全体のアドレナリン値が急上昇するんだ。それを感じるためだったら、身体が動く限りステージに上がり続けるよ。ぜひ日本にも戻ってライヴをやりたいね。

【公式ウェブサイト】

https://www.diamondheadofficial.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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