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ケヴィン・ゴドリーが語る音楽&映像の人生、10cc、ザ・ビートルズとの交流

山崎智之音楽ライター
Kevin Godley / courtesy Cherry Red Rcrds

ケヴィン・ゴドリーは半世紀以上にわたって音楽と映像の第一線を駆け抜けてきたアーティストだ。英国ポップ/ロックの人気バンド10ccのドラマーとしての彼を知るファンも多いだろうし、ロル・クリームとのコンビで MTVを席巻したミュージック・ビデオの映像クリエイターとしてインパクトを受けた音楽リスナーもいるだろう。

1945年生まれというから77歳のケヴィンだが、まだまだ元気だ。2020年には意外にも?初のソロ名義でのアルバム『Muscle Memory』が発表されたし、2022年には1960年代後半、10cc結成以前の貴重音源を集めたコンピレーション『Frabjous Days: The Secret World Of Godley And Creme 1967-1969』もリリースされた。

サウンド&ヴィジョン、過去&現在の垣根を自由に飛び越えてきた才人のケヴィンに、彼の歩んできた軌跡について訊いてみた。

<若いミュージシャンが何者かになりたくて試行錯誤しながら進んでいくさま>

『Frabjous Days: The Secret World Of Godley And Creme 1967-1969』ジャケット(Cherry Red/現在発売中)
『Frabjous Days: The Secret World Of Godley And Creme 1967-1969』ジャケット(Cherry Red/現在発売中)

●『Frabjous Days』はどういう性質のアルバムですか?

このアルバムは1960年代後半、まだ私たちが美術大学の学生で、プロのミュージシャンではなかった時代の音源を集めたものだ。ヒッピー・ブームが終わろうとする時期、10ccやホットレッグスの前だよ。フラブジョイ&ランシブル・スプーンとして発表したシングル(「I'm Beside Myself」b/w「Animal Song」/1969)や同時期にレコーディングしたけど発表されなかったアルバムなどが収録されている。正直、バンド名はそれほど好きではないんだ。いかにも学生っぽく青臭くて、しかも発音しにくいしね。私が自伝『Spacecake』(2015)を出したとき、電子書籍のインタラクティヴ仕様で、何曲かを聴けるようにしておいた。それを耳にしたのか、去年(2021年)かな?“チェリー・レッド・レコーズ”のジョン・リードが、マスターがあるならアルバムとして出したいと連絡してきたんだ。 新米で未熟な頃の音楽だけど、聴き返してみて、悪くはないと思った。若いミュージシャンが何者かになりたくて試行錯誤しながら進んでいくさまが捉えられていて、楽しめる人もいるんじゃないかってね。今より声域が高かったりして面白いよ。

●1972年に10ccとして活動を始める前、1960年代後半の音源ですが、当時“同期”にはどんなバンドがいましたか?

あまり他のバンドとはつるまなかったんだ。当時ロル・クリームと私はマンチェスターの美大生で、音楽は言ってみれば趣味だった。レコーディングのためにロンドンに行くなんて大冒険だったんだ。ミュージシャンの友人はいなかった。マンチェスター在住のミュージシャンなんてほとんどいなかったしね。

●マンチェスターはけっこうな都会だし、クラブ・シーンなども活発だったのではないですか?

うん、その通りだ。マンチェスターは人口の多いワーキング・クラスの都市だったから当時5、6軒のクラブがあったよ。アメリカからやってきたソウル・シンガーもマンチェスターで公演を行っていた。ジョン・メイオールはマンチェスター出身で、地元の“トゥイステッド・ホィール”というクラブの経営に関わっていたよ。でもマンチェスター出身のバンドはきわめて少なかったし、いたとしても成功したければロンドンに進出していったんだ。

●ザ・イエロー・ベロウ・ルーム・ブーム名義で1968年に発表したシングル「Seeing Things Green」b/w「Easy Life」が収録されていますが、これはどんなバンドだったのですか?

ザ・イエロー・ベロウ・ルーム・ブームのことはよく知らないんだ。本当にそれが“バンド”だったのか判らない。当時はミュージシャンを何人か集めて演奏させて、それに後から適当なグループ名を付けてレコードを出すこともあったんだ。美大当時にやったレコーディング・プロジェクトのひとつだと思う。ほとんど記憶がないんだよ。

●“アップル・レコーズ”と契約の話をしたのはこの時期ですか?

いや、もっと後になってからだった。10ccを結成するちょっと前、マンチェスターの“ストロベリー・スタジオ”のハウス・ミュージシャンでプロデューサーだった頃だった。裏方としてけっこう仕事があったし、バンドを組んでツアーをやるとか考えていなかった。でもニール・セダカのバックを務めたとき(1972年)、バンドとして活動することを勧められたんだ。それでエリック・スチュワートとグレアム・グールドマンが書いた「ウォーターフォール」という曲をレコーディングして“アップル”に送った。もし契約してくれたらシングルB面用の曲も要る!とレコーディングしたのが「ドナ」だったんだ。残念ながら契約は実現しなかったけどね。

●ロル・クリームがインタビューで“アップル”に行ったとき、イゴール・ストラヴィンスキーと会ったと語っていますが、あなたもその場にいましたか?

うん、ロルと私で行ったんだ。“アップル”は多様なアート、音楽や映像に門戸を拡げて、さまざまな人からアイディアを募っていた。それで私たちが彼らのオフィスを訪れたらストラヴィンスキーがいたんだ。ツイギーもいたのを覚えているよ。部屋に大麻の煙が立ちこめていて、それを吸い込んだせいでストラヴィンスキーの幻覚を見たのかと思った(笑)。残念ながら彼と話す機会はなかったんだ。当時は有名でも無名でも、誰もが“アップル”に集まった。面白い時代だったね。

<286人のコンポーザーやトラック・メイカーが曲を送ってきた>

Kevin Godley『Muscle Memory』(The State51 Conspiracy/現在発売中)
Kevin Godley『Muscle Memory』(The State51 Conspiracy/現在発売中)

●初のソロ・アルバム『Muscle Memory』(2020)について教えて下さい。

ミュージシャンとしては私はドラマーで、歌うこともあるけど、曲を書くにはパートナーを必要としてきた。それで今回はコラボレーション相手をネットで公募したんだ。そうしたら286人のコンポーザーやトラック・メイカーが曲を送ってきた。その中にはオーストラリアのゴティエもいたし、たくさんの才能溢れるアーティストがいたよ。だからソロ・アルバム名義であっても、たった1人で作ったわけではないんだ。

●アルバムには全11曲が収録されていますが、どのような基準で選んだのですか?

大事だったのは、自分が共鳴出来ることだった。送られてきた曲はすべて聴いたし、とても良いものもあった。でも自分が何かを感じて、何かを加えることが出来ることを重視したんだ。1枚のアルバムとしての流れやスウィング感、そして自分からどんな要素を引き出すことが出来るかを考えて、この11曲をピックアップした。大事なのはインスピレーションだった。何もない状態から新しく曲を書くのでなく、手元にデモがあるというのは新鮮だった。それに自分がいないところで曲を書いてくれるから、私が気を遣ってお茶を淹れたりする必要もなかったよ(笑)。アプリのGarageBandを使って組み立てていったんだ。自分にとって新しい経験だったし、やってみて良かったね。

●外部ソングライターを起用するアイディアはどのように生まれたのですか?

興味深いことに「Expecting A Message」と「Periscope」の原型となるトラックは元々ある日、会ったこともない2人の人物から私のところに送られてきたんだ。何故別々のソングライターがほぼ同時にそうしてきたのかは判らない。聴いてみて、インスピレーションが湧いてきて、いろいろやってみることにした。『Muscle Memory』はそこから発展していったんだよ。 レコーディングが2/3ぐらい出来上がった時点でコロナ禍が始まったんだ。良くないことではあったけど、アルバム作りに集中出来るというメリットはあった。直接歌詞で言及していなくとも、時代の空気が反映されているよ。すべての作業が直感的だったんだ。そういう経験は初めてだった。だから何度か作業をストップさせて、自分がやっていることがうまく行っているだろうか?と確認する必要があった。ミュージシャンとして駆け出しだった1960年代のことを思い出したよ。

●作業に詰まったとき、かつての音楽的パートナーだったロル・クリームに電話しようと考える瞬間はありましたか?

それは一度もなかったな。私は自分のヴォイス、自分の表現メソッドを見出したし、そのことに喜びを感じている。だから過去のパートナーと組むことにはあまり興味がないんだ。ロルとは数年連絡を取っていないよ。仲が悪くなったわけではないけど、みんなそれぞれの音楽があるし、それぞれの人生がある。10ccで一緒にやっていた4年間、我々には素晴らしい化学融合が起こっていた。その後、ロルとはいくつもの良い仕事をした。それらは今でも誇りにしているよ。ただ、それを繰り返すことは考えていないんだ。

<『ギズモ・ファンタジア』では自分たちの大傑作を作ることに集中していた>

Lol Creme / Kevin Godley『Consequences』ジャケット(ユニバーサル/現在発売中)
Lol Creme / Kevin Godley『Consequences』ジャケット(ユニバーサル/現在発売中)

●『ギズモ・ファンタジア Consequences』(1977)ではギターに取り付けてヴァイオリンを思わせるサウンドとサステインを得るアタッチメント“ギズモ”(商品名:ギズモトロン)が全面的にフィーチュアされていますが、いつから構想があったのですか?10ccの『びっくり電話:ハウ・デア・ユー』(1976)のタイトル曲のインストゥルメンタルは、『ギズモ・ファンタジア』に向けた前兆だったといえるでしょうか?

いや、『ギズモ・ファンタジア』の構想はもっと前、10cc以前からあったんだ。前身バンドのホットレッグスの頃にプロトタイプをマンチェスター工科大学(現在はマンチェスター大学に併合)に作ってもらった。当時マンチェスターのポップ音楽シーンはストリングス奏者が少なかったんだ。ヴァイオリンやチェロを取り入れようにも、ミュージシャンが見つからなかった。それで「ギターも弦楽器なんだし、同じように弾ける筈だ」という考えに至ったんだよ。10cc時代にも少しだけ使ったけど、その可能性を十分に掘り下げることが出来なかった。『びっくり電話:ハウ・デア・ユー』の後、ロルと私とで 2週間ぐらい“ストロベリー・スタジオ”で何かやってみようということになったんだ。その時点で何をするかは、自分たちでも判っていなかったけど、いろいろ実験して楽しかったよ。あまりに面白くて、このままギズモを全面的にフィーチュアしたアルバムを作ろうと話した。でもレコード会社から10ccの新しいアルバムを早く作って欲しいというプレッシャーがかかったんだ。

●...それは困りましたね。

エリックとグレアムは数曲を書いていた。それを聴かせてもらったけど、まったく心が動かなかったんだ。ロルと私の心は別の場所にあったんだよ。10ccのニュー・アルバムを作ってツアーをしたら、少なくとも6ヶ月はかかる。今の私だったらそれが終わってから自分のやりたいことをやったかも知れないけど、当時は若かったし、その忍耐力がなかった。すぐに新しく実験的でエキサイティングなプロジェクトに着手したかったんだ。その時点で10ccの音楽は予測可能になりつつあった。人々がバンドに求める“10cc像”に閉じ込められるようになったんだ。それから逃れるには、脱退するしかなかった。ただ、『ギズモ・ファンタジア』はリリースされた時期が良くなかったんだ。1977年、パンクとディスコがブームになっていて、3枚組のコンセプト・アルバムは大衆にとってお呼びではなかったんだよ。

●とはいえ、『ギズモ・ファンタジア』に前後してジャン・ミッシェル・ジャールの『幻想惑星』(1976)やジェフ・ウェインの『宇宙戦争』(1978)、スカイの『プラネット・モザイク Sky』(1979)など、スケールの大きな作品がメインストリーム市場でヒットを記録していました。『ギズモ・ファンタジア』にはチャンスがなかったのでしょうか?

うん、君の言いたいことは判るよ。『ギズモ・ファンタジア』のもうひとつの問題は、私たちが作品に没頭し過ぎたこともあったかも知れない。あまりに実験が面白くて、気が付いたら3枚組アルバムになっていた。客観性を失っていたんだ。「よし、このアルバムが傑作であることを証明しよう」という気負いもあった。正直、作っているときはパンクやディスコのことなんて頭の片隅にもなかった。自分たちの大傑作を作ることに集中していたよ。マイケル・チミノの映画『天国の門』(1980)みたいなものかもね。私はあの映画が好きだけど、すごく批判されたのを覚えている。

●『ギズモ・ファンタジア』への当時の評価はどんなものでしたか?

けっこう酷いものだったな。アムステルダムで新作試聴会をやって、世界中のジャーナリストを招いたんだ。自分の墓穴を掘るような行為だった。レビューでは見事に酷評されたよ。さらに言えば、3枚組のボックス仕様のアルバムは誰もが気軽に買える値段ではなかった。ヒットしないことは、出す前から判っていたんだ。それでも我々はピュアなアーティストだったし、出さねばならなかった。『ギズモ・ファンタジア』でやったことは後悔していないし、もし作っていなかったら、その後の音楽的チャレンジも行われることがなかった。ずっと10ccでの活動を続けて、同じような音楽を作っていたかも知れない。それに『ギズモ・ファンタジア』には根強いファンがいて、45年経っても日本のジャーナリストに質問されたりする(笑)。音楽の歴史に爪痕を残したと思うと良い気分だよ。

Kevin Godley / courtesy of Cherry Red Records
Kevin Godley / courtesy of Cherry Red Records

<ヴィザージ「フェイド・トゥ・グレイ」はビデオ監督としての初期の名刺となった>

先日フィル・マンザネラと話したとき、ゴドリー&クリームの『フリーズ・フレーム』(1979)は当初“GCM(ゴドリー・クリーム・マンザネラ)”という新バンドの作品になる予定だったと言っていましたが、何故実現しなかったのでしょうか?

フィルは優れたギタリストで近所に住む友人なんだ。3人でのスタジオ作業は楽しかったし、バンドとしてやっても面白いと思ったけど、スケジュールに問題があったんだ。彼はロキシー・ミュージックと掛け持ちしていたし、両立させるのは現実的でなかったよ。エゴの衝突はなかった。もっと続けたらさらに良いものが作れた筈だし、それが出来なかったのは残念だね。

●ゴドリー&クリームは1980年代にビデオ・クリエイターとしてMTVで一世を風靡しました。ポリスやハービー・ハンコック、ピーター・ゲイブリエル、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドなどと共に、デュラン・デュランやヴィザージなど“ニュー・ロマンティックス”と呼ばれるアーティスト達のビデオも手がけましたが、どのようにして彼らと関わるようになったのですか?

ヴィザージのスティーヴ・ストレンジと知り合ったのは、ニュー・ロマンティックスがブームになる前だったんだ。その頃私はロンドンに住んでいて、クラブに出入りしたりもしていた。彼は確か“ブリッツ”のドアボーイだったと思う。後にニュー・ロマンティックスの中心となるクラブだよ。ロンドンではパンクが衰退しつつあって、いろんな新しいムーヴメントが芽生えつつある時期だった。その時点でゴドリー&クリームは自分たちの「ニューヨークのイギリス人」という曲のビデオを制作していた。スティーヴはどこかでそのビデオを見たんだと思う。ヴィザージを結成して“ポリドール”と契約したとき、ヴィジュアル戦略の監督として私たちを選んだんだ。まだミュージック・ビデオというものの歴史も浅かったし、私たちには実績がなかったから、レコード会社は躊躇しているようだった。でもスティーヴは私たちを強く推してくれた。「フェイド・トゥ・グレイ」はゴドリー&クリームのビデオ監督としての初期の名刺となって、いろんな仕事が舞い込んできたんだ。

Kevin Godley / courtesy of Cherry Red Records
Kevin Godley / courtesy of Cherry Red Records

<ザ・ビートルズがいなければゴドリー&クリームは存在しなかった>

●『Frabjous Days』の1960年代後半はザ・ビートルズの活動後期と重なってますが、彼らからの影響はどんなものでしたか?

ザ・ビートルズは1960年代のポップ・バンドだったけど、アート・スクール系の音楽ファンからも人気があったし、私も敬意を持っていたよ。彼らがいなければゴドリー&クリームは存在しなかったと思う。『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)が出たとき私は美大生だったけど、彫刻室でもリトグラフ室でも誰もがアルバムを聴いていて、廊下を歩いているとサウンド・コラージュみたいだった。まるで「レヴォリューション 9」だったよ(笑)。

●ザ・ビートルズのメンバー達と交流を持つようになったのは?

その時期はもうザ・ビートルズは解散していた。10ccが昼間に“ストロベリー・スタジオ”で『シート・ミュージック』(1974)をレコーディングしていて、夕方になって仕事を上がると、入れ替わりでポールが弟のマイク・マッギアのレコーディングでやって来た。そのときに話したり、お互いの新曲を聴かせあったりしたよ。どれだけ影響があったのか、ウィングスの『ロンドン・タウン』(1978)でギズモを使っているんだ(「アイム・キャリイング」)。

●ミュージック・ビデオ監督としてザ・ビートルズの元メンバー達と関わったときのことを教えて下さい。

最初にやったのはリンゴ・スターの(「ザ・クーラー」/1981)だった。まだビデオを制作するようになって日が浅く、ただのミュージック・ビデオでなく短編映画に近いものだったんで、気合いが入ったよ。ポールの会社“MPL”が制作で、彼にも出演してもらったんだ。それから数年後、ジョージ・ハリスンの「FAB」(1987)のビデオも作った。ただ曲をプレイするだけでなくシュルレアルなヴィジュアルで、ザ・ビートルズを連想させる要素を散りばめて、リンゴやエルトン・ジョンなどのゲストも出演している。ジョージと一緒にやれたのは名誉だったし、彼はジョーク好きで、とにかく楽しかったよ。面白かったのは、ビデオについていろんな噂が立ったことだった。食料品を載せたカートを押しているのがポール・サイモンだとか、セイウチのぬいぐるみを着込んでいるのはポールに違いない!とかね。いや、あれはマネージャーだよ(苦笑)。誰もが自分の信じたいことを信じるものなんだ。

Kevin Godley / courtesy of Cherry Red Records
Kevin Godley / courtesy of Cherry Red Records

<自分のキャリアで最も忙しい時期のひとつなんだ>

●新しい音楽や映像プロジェクトの予定はありますか?

どういうわけか、今は自分のキャリアで最も忙しい時期のひとつなんだ。音楽ではいくつか実験を始めている。こちらもまだ形になっていないし、どんなものになるか判らない。その自分でも判らないというのがスリリングで面白いんだけどね。それからアメリカの作曲家ジョン・カリフラから話を持ちかけられて、オペラを共作しているところなんだ。まだ初期段階だけど、面白いものになるよ(注:『Echoes From The Darkness』とタイトルが発表されている)。あと、テレビゲームの会社“アテナ・ワールズ”にクリエイティヴ・コンサルタントとして起用されるんだ。アート作品の展覧会もやりたいと考えていて、“グループ・オブ・ヒューマンズ”というアート団体と話し合っている。オーソン・ウェルズの人生最後の夜をドラマ化した映画もプリプロダクションが進んでいるし、エイドリアン・ディーヴォイとの映画プロジェクト『Where The Treetops Glisten』も近いうちに制作に入るつもりだ。ミュージック・ビデオの話も何本かあるし、2023年も忙しくなるよ。

●『Muscle Memory』のときに送られてきたトラックがまだ250以上残ってるわけですが、今後それらを使って『Muscle Memory II』を作る意志はありますか?

うーん、もう“筋肉疲労”してしまったかもね。何度も同じことを繰り返すつもりはない。今書いている音楽は、まったく異なった方向を向いているんだ。

●続編といえば、ゴドリー&クリームの変則コンピレーション・アルバム『ヒストリー・ミックスVol.1』に続く『Vol.2』を出す可能性はありますか?

うーん、可能性は低いね。後戻りするのは好きではないんだよ。

●ある意味では続編といえる、ギズモの後継機“ギズモトロン2.0”はどんなものですか?

オリジナル版を改良して、よりセッティングを簡単にしてチューニングも安定するようになった。初代“ギズモトロン”が発売された(1978年)のはシンセサイザーの廉価版が出たのと似たような時期で、そっちに話題を奪われてしまったんだ。まるで古楽器のように扱われたよ。ただ、長い年月を経て一種のカルト的支持を得て、“2.0”を出す話をもらったんだ。2016年に発売になってから、けっこう売れている。

●これまで日本に来たことはありますか?

いや、一度もないんだ。10ccを脱退した直後に彼らのジャパン・ツアーが決まって、「しまった!日本に行ってから辞めれば良かった!」と思ったのを覚えているよ(苦笑)。次の音楽プロジェクトでツアーをやることになったら、ぜひ日本でもライヴをやりたいね。

Kevin Godley / courtesy of Cherry Red Records
Kevin Godley / courtesy of Cherry Red Records

【海外レーベル公式サイト】

Godley & Creme

『Frabjous Days: The Secret World Of Godley And Creme 1967-1969』

Cherry Red Records 現在発売中

https://www.cherryred.co.uk/product/godley-creme-frabjous-days-the-secret-world-of-godley-creme-1967-1969/

【アーティスト公式サイト】

http://www.kevin-godley.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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