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フィル・マンザネラが語るロキシー・ミュージック50年の秘話【後編】

山崎智之音楽ライター
Roxy Music 1975(写真:Shutterstock/アフロ)

ティム・フィンとのコラボレーション・アルバム『サンティアゴの幻影』を発表したフィル・マンザネラへのインタビュー全2回の後編。

前編記事ではアルバムについて訊いたが、今回はロキシー・ミュージック50周年再結成ツアー、そしてそのキャリアを通じての秘話の数々を明かしてもらおう。

Tim Finn & Phil Manzanera『The Ghost Of Santiago』ジャケット(JUNE DREAM / IAC MUSIC JAPAN 2022年7月29日発売)
Tim Finn & Phil Manzanera『The Ghost Of Santiago』ジャケット(JUNE DREAM / IAC MUSIC JAPAN 2022年7月29日発売)

<ロキシー・ミュージック再結成はいつもバンド主導だ>

●2022年9月に北米、10月にイギリスでロキシー・ミュージック再結成ツアーが行われます。ファースト・アルバム『ロキシー・ミュージック』(1972)の発表50周年を記念するツアーと銘打たれていますが、どんな構成になるでしょうか?

既にバンド・ミーティングを行って、話し合っているよ。ロキシー・ミュージックは通算で約80曲を発表してきたけど、候補を26曲まで絞ったところだ。基本的には前回の40周年ツアー(2010〜2011年)と同様、グレイテスト・ヒッツになると思う。ファンが聴きたいロキシー・クラシックスをプレイするよ。でも数曲サプライズも放り込むつもりだし、あらゆるファンが楽しめる瞬間があるだろう。2023年には、ぜひ日本でもプレイしたいね。前回ロキシー・ミュージックで“フジ・ロック・フェスティバル”に出演したのは、ツアーのハイライトのひとつだった(2010年)。日本のファンが私たちの音楽を愛してくれるのが伝わってきたし、私たちもそれに応えようとしたよ。

●今回の再結成はどのように起こったのですか?

ブライアン(フェリー)が近所に住んでいて、たまにお茶をするんだよ。それで去年「来年は50周年だね。何かやろうか」「いいね、やろうよ」って話になったんだ。40周年のときもそうだけど、ロキシー・ミュージックの再結成はいつもそうやって始まるんだ。マネージャーや弁護士ではなく、バンド主導なんだよ。アンディ・マッカイとポール・トンプソンも乗り気だし、凄く良い状態だ。早くライヴをやりたいね。

●ロキシー・ミュージックを再結成するとき、ブライアン・イーノに声をかけることはありますか?

2019年、“ロックンロール・ホール・オブ・フェイム”のセレモニーで演奏したときにはイーノも誘ったよ。彼も殿堂入りメンバーだからね。ただ、“飛行機が環境破壊に繋がるから乗りたくない”という理由で辞退してきた。今回の再結成のことはもちろん彼も知っているけど、参加のオファーはしていない。彼が参加したのは最初の2枚のアルバムだけだし、それ以降の曲ではプレイしていないからね。でも彼とは常に連絡を取っているよ。今ブライアン・フェリーが作っているソロ・アルバムにも私と一緒に参加している。

●ティムやイーノ、デヴィッド・ギルモアなど、あなたは交流の長い友人が多いですね。

そうだね、みんな半世紀にわたる友達だ。デヴィッドはプロのミュージシャンを目指す16歳の私に、兄が「友達でミュージシャンがいるから話を聞いてみたら?」と紹介してくれたんだ。デヴィッドはピンク・フロイドに加入したばかりで、私と会った後に“アビー・ロード・スタジオ”に行った。『神秘』(1968)のレコーディング中だったんだ。その後、1970年代に再会して、ずっと親しく付き合っている。『鬱 A Momentary Lapse Of Reason』(1987)では「ワン・スリップ」を共作しているし、『オン・アン・アイランド』(2006)『永遠 The Endless River』(2014)『飛翔 Rattle That Lock』(2015)では共同プロデュースをして、デヴィッドのツアーにも同行したんだ。お互いの家にも行き来するし、彼が次にやるプロジェクトでも一緒に出来たらいいと考えているよ。

●2005年頃、ロキシー・ミュージックとしてのニュー・アルバムを制作するという話がありましたが、どの程度具体性があったのですか?

ブライアンとアンディ、ポール、私の4人で集まって、ロキシー・ミュージックとしての新曲を書き始めたのは事実だ。でも、自分たちが求めるレベルの曲を書けたと思わなかったんだ。『アヴァロン』(1982)に続くアルバムなんだから、スペシャルなものでなければならない。それを書けなければ、出す価値がないと思った。それであのプロジェクトは中止にしたんだ。

●ところで2015年の“レコード・ストア・デイ”で『ロキシー・ミュージック』(1972)収録曲「レディトロン」のロング・ヴァージョンがアナログ盤10インチ・シングルとして発売されましたが、どんな背景があったのですか?

元々「レディトロン」は7分以上の曲で、後半にイーノのVCSシンセと私のギターの応酬が入っていたんだ。ライヴではインプロヴィゼージョンも交えて、もっとロング・ヴァージョンだった。ただ、LPだとトータル40分前後という時間制限があって、4分台にカットせざるを得なかったんだ。その元々のテープを発掘したんだよ。本来のあるべき姿に戻って、スティーヴン・ウィルソンのリミックスによって迫力がさらに増している。10インチ・シングルは限定盤だったけど、容易に聴けるようにしたいね。

●ギターとシンセが絡み合うフリークアウトしたサウンドがホークウィンドを彷彿とさせたりもしますね。

ハハハ、私たちとホークウィンドが同じタイプの音楽をやっていたとは思わないけど、その比較は面白いね。ホークウィンドは1970年代前半、ロンドンの“ラウンドハウス”で何回かライヴを見たよ。後にモーターヘッドを結成するレミーがベーシストで、ヌード・ダンサーがステージ上にいた。レミーとは何度か話したことがあるけど、とてもユニークなユーモアがあって面白い人だった。彼が亡くなって残念だよ。

●ロキシー・ミュージック『カントリー・ライフ』(1974)の「アウト・オブ・ザ・ブルー」でエディ・ジョブソンのヴァイオリンを大フィーチュアしたのはあなたのアイディアでしたか?

うん、その通りだ。私がエディに頼んだんだよ。フランク・ザッパのレコードでジャン・リュック・ポンティが弾くエレクトリック・ヴァイオリンが好きだったんだ。それとファミリーもリック・グレッチのヴァイオリンをフィーチュアしていた。エディが加入したとき、あんなプレイをして欲しかったんだ。

Phil Manzanera / courtesy of IAC MUSIC JAPAN
Phil Manzanera / courtesy of IAC MUSIC JAPAN

<ロキシー・ミュージックが成功を収めたのは、リスナーの心に響く何かがあったからだった>

●ゲイリー・ケンプとガイ・プラットの配信チャンネル『Rockonteurs』でのトークで、ゴドリー&クリームは『フリーズ・フレーム』(1979)を発表した後、あなたを加えたバンドとして始動する筈だったと話していましたが、何故続かなかったのですか?

1970年代後半、ロキシー・ミュージックが活動休止してから、私は幾つかのプロジェクトに関わっていた。801もそのひとつだったし、『フリーズ・フレーム』もそうだったんだ。ケヴィン・ゴドリーとロル・クリームと私でGCM(ゴドリー・クリーム・マンザネラ)というバンドを結成することになっていた。彼らがやっていたサウンドの実験は魅力的だったし、ソングライターとしても優れていたからね。でもスタート直前にブライアンからロキシー・ミュージック再始動の誘いがあったんだ。当初は掛け持ちでもいいと言われたんだけど、やはり2つのバンドで同時にやるのはスケジュール的に無理だと思って、ロキシー・ミュージックに専念することにした。

●2017年、あなたのソロ来日公演で1曲目にザ・ビートルズのカヴァー「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」を持ってきたのは、『801ライヴ』(1976)を意識したのですか?

(公演によって演奏曲目は変動した)

うん、私の歴史を知っているファンだったら801を思い出すだろうし、そうでなくともザ・ビートルズの名曲だから盛り上がると思ったんだ。1960年代のポップ・ミュージックの進化を象徴する曲だし、自分の音楽に対する意識を形作った存在だよ。

●801の正式の発音は“エイト・オー・ワン”で正しいですか?“エイト・ノート・ワン Eight Naught One”の頭文字を繋げるとENO(イーノ)になるという説もありますが...。

“エイト・オー・ワン”が正解だよ。イーノが私と共作した「ザ・トゥルー・ホイール」という曲に“we are 801”という歌詞があるんだ(『テイキング・タイガー・マウンテン』<1974>収録)。どういう意味なのかは私にもよく判らないけどね(苦笑)。

●初期は派手でグラマラスなイメージを押し出していたロキシー・ミュージックが活動再開後の『フレッシュ・アンド・ブラッド』(1980)『アヴァロン』(1982)で抑えの効いたアダルトな方向に向かったのは、どんな経緯があったのでしょうか?

決して作為的にあの方向に向かったわけではなく、当時の創造性のパレットで描いた絵画があの2枚のアルバムだったんだよ。ロキシー・ミュージックはアルバムごとに異なった音楽をやってきた。その2作でも自分たちのやったことがない、新鮮な音楽をやりたかったんだ。デビューしてから10年経つとバンドの感性や経験値も変わるし、テクノロジーも変わっていく。『アヴァロン』の頃には私は自分のホーム・スタジオを建てていた。ピーター・ゲイブリエルが“リアル・ワールド”スタジオを建てるよりもずっと前のことだよ。大きなコントロール・ルームがあって、バンド全員でプレイ出来る規模のものだった。バンドからポール・トンプソンが脱退したことで、当時最先端だったリン・ドラムを試してみたり、いわばスタジオを研究室として、コンソールを楽器として使ったんだ。その結果、意匠を凝らした作品を作ることが出来たと思う。1980年代という新しい時代に入って、ブライアン・フェリーもよりスムーズで洗練された音楽性を志していたし、すべてが作用してあの2作が生まれたんだ。それに加えて『アヴァロン』は史上2番目に発売となったコンパクト・ディスク(CD)だった。クリアーできらびやかな新時代のメディアにぴったりのアルバムだったんだ。今だから言うけど、私は必ずしもそんな路線に満足していたわけではなかった。その反動で、ほぼ同時に『プリミティヴ・ギターズ』(1982)というソロ・アルバムを発表したんだ。『アヴァロン』に対する私からの返答だったんだよ。

●ロキシー・ミュージックにはさまざまな異なった側面がありました。(1)数多くのヒット曲を出したポップ・バンド、(2)元クワイエット・サンのあなたと後にアンビエント・ミュージックを確立させるイーノが組んだプログレッシヴ・バンド、そして(3)1980年代初頭ロンドンの“ブリッツ・キッズ”やデュラン・デュラン、ヴィザージなどに影響を与えたファッション・アイコンという要素を矛盾なく共存させることには困難は伴いませんでしたか?

私はクワイエット・サンでプログレッシヴ・ミュージックをやってきて、変化を求めていた。それでブライアン・フェリーやイーノがいる、風変わりなポップ・バンドに身を投じることにしたんだ。ロキシー・ミュージックのメンバーはそれぞれ異なった音楽志向を持っている。ただ、音楽を愛していることだけは共通していた。そんな面々がひとつのバンドで活動したことで、奇妙な化学融合が起こったんだ。ロキシー・ミュージックが成功を収めたのは、リスナーの心に響く何かがあったからだった。決して高度なテクニックを持ったミュージシャンではなかったし、凄い名曲を書いたわけでもなかった。でも、ちょうど良いときにちょうど良い音楽を提供したんだよ。だいたい当時、自分たちがファッションのアイコンだなんて考えていなかったよ。ただ手近にあった奇妙なサングラスをかけてギターを弾いただけだ(笑)。でも私たちのヴィジュアルにも、リスナーとのコミュニケーションで繋がり合う要素があったんだ。私たちよりはるかにグッド・ルッキングな若手アーティストから「影響を受けました」と言われて「...本当に?」と思うこともあるよ。

●さらに近年、ジェイ・Zとカニエ・ウェストが「ノー・チャーチ・イン・ザ・ワイルド」で「K-スコープ」をサンプリングしたことで、ヒップホップ・キッズからも注目されるようになりましたね。

うん、でもヒップホップとの関わりはこれが初めてではないんだ。1990年代にもロキシー・ミュージックの「アマゾナ」のリフにアイスTがラップを乗せたことがあったよ(「ザッツ・ハウ・アイム・リヴィン」<1993>)。ジェイ・Zとカニエが「K-スコープ」のテンポを落としてサンプルするというのは、プロデューサーの88キーズのアイディアだったんだ。驚いたけど面白いと思ったし、私の曲があのような形で生まれ変わるのはとても新鮮な経験だった。あの曲がきっかけで私の音楽を聴くようになったファンもいるんだ。SNS経由でファンメールをもらったりするよ。

●ヒップホップを聴くことはありますか?

熱心なファンではないかも知れないけど、良いヒップホップの曲には魅力を感じるよ。ミュージシャンはあらゆる音楽に耳を傾けるべきなんだ。自分がそのスタイルの音楽をやるのでなくても、インスピレーションの源となるからね。

●ロキシー・ミュージック50周年ツアーの後の予定はありますか?

アンディ・マッカイとインストゥルメンタル・アルバムを作ることが決まっているんだ。バンドとは異なる実験的なサウンドで、AMPMというプロジェクト名になるよ。あとクワイエット・サンの仲間と集まって、何かをやれたらいいと考えている。まだ具体的な話ではないけどね。それから私のキャリアを網羅したボックス・セットを出す企画も進んでいるんだ。ソロやいろんなバンドの曲、未発表音源も入れるつもりだよ。

●ジャック・ブルースの最後のアルバム『シルヴァー・レイルズ』(2014)に参加した思い出を教えて下さい。

ジャックとはセヴィリアの“ギター・レジェンズ”コンサート(1991年)で知り合ったんだ。ジャックと私、それからサイモン・フィリップスとクリームの曲をプレイした。そのときボブ・ディランとも共演したんだ。ジャックはクリーム時代から私のヒーローだったけど、とても良い友人になることが出来た。その後、一緒にキューバに行って、“ハバノス・フェスティバル”という葉巻の祭典でプレイしたよ(2014年)。ジャックはラテン・ミュージシャンとバンドを組んでいたこともあったし、興味があることは知っていたから、私が誘ったんだ。「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」を地元のミュージシャンと共演したり、楽しかった。その模様はビデオに撮ってあるんだ。みんな白いスーツを着て、葉巻を吸って...美しい思い出だよ。『シルヴァー・レイルズ』は“アビー・ロード・スタジオ”でレコーディングしたんだ。そのときジャックの体調は正直良くなかったけど、私は事前に自分の弾くべきパートをみっちり練習して、出来るだけロスタイムを作らないようにした。あのアルバムに参加出来たことは誇りにしているよ。

●ちなみにゲイリー・ムーアは1994年にジャックやジンジャー・ベイカーとバンドBBMを結成、その後も何度かジャックと共演しています。彼のバンドにロキシー・ミュージック脱退後のポール・トンプソンが加入したこともありましたが(1984年)、面識はありましたか?

彼とは一度も会ったことがなかったけど、「パリの散歩道」などは知っているし、素晴らしいギタリストだということは認識しているよ。ぜひギターの話などをしてみたかったね。

■アーティスト:Tim Finn & Phil Manzanera(フィル・マンザネラ & ティム・フィン)

https://finnmanz.com/

https://www.manzanera.com/

■タイトル:THE GHOST OF SANTIAGO(サンティアゴの幻影)

■品番:IACD10925

■その他:日本限定紙ジャケット仕様/日本語解説付

■発売元:JUNE DREAM / IAC MUSIC JAPAN

https://www.interart.co.jp/business/entertainment.html

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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