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【インタビュー前編】カリフォルニア砂漠のレジェンド:マリオ・ラーリが語るデザート・ロック

山崎智之音楽ライター
Mario Lalli (left) /courtesy Mario Lalli

カリフォルニア・デザート(砂漠/土漠)の砂塵の向こうに、秘められたロック・シーンがあった。

ロサンゼルスやシアトルの煌びやかなネオンの光が届かない地域。1980年代、ミュージシャン達はライヴを行う場所を求めて、バンに機材と発電機(ジェネレーター)を積んでデザートに向かった。ヌーディスト・コロニー跡地の廃墟で行われた一連の“ジェネレーター・パーティー”は伝説となっている。

その主催者であり、ヨーニング・マン、ファットソー・ジェットソンという2大バンドで活動するのがマリオ・ラーリだ。“ゴッドファーザー・オブ・デザート・ロック”と呼ばれる彼は、カイアスやクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジに影響を与えたことでも知られている。

マリオの率いるヨーニング・マンが発表したのがライヴ・アルバム/映像作品『Live At Giant Rock』である。デザートにある大自然の巨岩“ジャイアント・ロック”を背にして行われるヘヴィでスペーシーな演奏は、荘厳で浮遊感を伴うものだ。

日本で初めて明かされるデザート・ロックの深奥。全2回インタビュー記事の前編では、マリオが『Live At Giant Rock』とジェネレーター・パーティーの原点について語ってくれた。

<カリフォルニア・デザートには言葉には出来ないマジックが漂っている>

●『Live At Giant Rock』を制作した経緯を教えて下さい。

ライヴ映像作品を作るアイディアは、ずっと前からあったんだ。すべてが動き出したのは、2020年5月に出演する予定だった“ストーンド&ダステッド・フェスティバル”(22日〜24日、モハヴェ・デザート)がCOVID-19のせいで中止になったことだった。ウェブキャストでフェスの模様を流すことになっていたから、コンテンツが必要となったんだ。じゃあどうする?と考えたときに、このアイディアが浮かんだ。カリフォルニア・デザートは俺たちの原点だし、一種の神秘性がある。自分の地元だけど、まるで地球でない別の惑星のようだ。ジャイアント・ロックはデザートを象徴する存在でもある。さらに何もないだだっ広い場所でライヴをやることで、ソーシャル・ディスタンスも守ることが出来る。ジャイアント・ロックでライヴを撮影するのは、すべてへの完璧な答えだったんだ。当初からウェブキャストに加えてDVD化することをイメージしていたけど、演奏もすごく良い出来だったんで、レコードとCDも出すことにした。

●他アーティストのライヴ映像作品で、インスピレーションを得たものはありましたか?

Yawning Man『Live At Giant Rock』ジャケット(Heavy Psych Sounds/現在発売中)
Yawning Man『Live At Giant Rock』ジャケット(Heavy Psych Sounds/現在発売中)

『Live At Giant Rock』を作るにあたって最も大きな影響を受けたのは、ピンク・フロイドの『ライヴ・アット・ポンペイ』(1972)だった。あの映像を初めて見たのは1986年ぐらい、既にジェネレーター・パーティーをやっていた時期だったけど、俺の頭の中ですべてがカッチリはまったんだ。ドラマチックな舞台で、バンドが無観客で演奏する...当時から、いつかこんな作品を作りたいと考えてきた。俺たちなりのやり方でね。

●それにしても、ほぼ全編をiPhoneとドローンで撮影したというのに驚きました。

『ライヴ・アット・ポンペイ』の時代はまだテクノロジーがなかったから、あれだけの規模の撮影をしようとしたら大勢のクルーが必要だし、膨大な費用がかかっただろうね。俺のいとこでファットソー・ジェットソンのベーシストでもあるラリー・ラーリはフォトグラファーでもあって、カイアスの初めてのフォト・セッションを撮ったのも彼だ。1980年代からスケートボーダーの必殺技をビデオで撮ったりもしていたけど、ジェネレーター・パーティーにもビデオカメラを持ち込んで、ライヴを撮るようになったんだ。当時のビデオカメラはでかくて、しかもケーブルでビデオデッキと接続しなければならなかった。それをさらに発電機に繋ぐ必要があった。当時と較べれば、テクノロジーの進歩が目覚ましいね。iPhoneとドローンで撮影して、編集もコンピュータを使って容易に出来るようになった。

●ジャイアント・ロックはカリフォルニア・デザートを象徴する巨岩ですが、あなたにとってどんな存在ですか?

デザートには何もない大地の中に、幾つも岩が転がっているんだ。とても美しいし、神秘的だ。独特の磁場があって、その真っ只中でライヴをやるのは、宗教的な儀式とすらいえる経験だった。ヨーニング・マンは2005年に『Rock Formations』というアルバムを出したけど、そのブックレットにはファットソー・ジェットソンのドラマーのトニー・トーネイが撮った巨岩の写真がいくつも載っているんだ。

●我々日本人もジャイアント・ロックを訪れることは可能でしょうか?

自動車やバイクで行くことが出来るよ。観光名所でもあるんだ。7階建てビルと同じ高さのある岩石で、2000年に大きなかけらが欠け落ちるまでは、世界最大の巨礫だった。ネイティヴ・アメリカンにとってのスピリチュアルな聖地で、いろんな部族の人々が巡礼で訪れていた。また、この岩が特殊な超自然的エネルギーを発しているという説もある。この周辺で頻繁にUFOが目撃されているのも、それが原因ではないかといわれているんだ。ジャイアント・ロックから2マイル離れたところにはUFOコンタクティのジョージ・ヴァン・タッセルが創設した施設“インテグラトロン”がある。テスラのエネルギー原理を元にしたキューポラで、ヴァン・タッセルは宇宙人と接触していて、ジャイアント・ロックは我々の世界と外宇宙を繋ぐ場所だったそうだ。

●『Live At Giant Rock』はそんなロケーションとバンドの演奏が相乗効果を成していますね。

『Live At Giant Rock』の映像を見ると、ジャイアント・ロックのすぐ横に滑走路のようなものがあるのが判る。それがUFOの発着に使われたのではないかともいわれるんだ。数十年前には、UFOファンの会合のために自家用飛行機でジャイアント・ロックを訪れる人もいたそうだよ。最近ではエクストリーム・スポーツの連中が登ったりしている。ちょうど俺たちが演奏していたときも登っていた人がいたよ。オフロードのバイクに乗っている連中もいるし、昼間は大勢の人がいるから、ライヴの撮影は早朝にやったんだ。

●キース・リチャーズとグラム・パーソンズが近隣のジョシュア・トゥリー国立公園でUFOウォッチングをしていたそうですが、あなたはUFOを目撃したことはありますか?

いや、ないんだ。流れ星は何度も見たことがあるけど、UFOは見たことがない。これだけUFOで有名な地域なのに、友人でも見たことがある人はいないよ。ただ、この地域一帯にはヴォルテックス(エネルギーの渦)を感じる。ネヴァダ州のエリア51の近くを通ったときも似たようなヴォルテックスを感じたし20代前半、ペルーを訪れたときもそうだった。比較的最近も、アルゼンチンでキャトルミューティレイションがあったという場所で奇妙なエネルギーを感じたよ。...まあ、UFOは見たことがないけど、脳ミソがエイリアンみたいな、頭のおかしい人間とは大勢会ったことがあるよ(苦笑)。

●遠いカリフォルニア・デザートには、私のような日本人にも強烈なロマンをかき立てるものがあります。

ははは、君だけではないよ。俺みたいにこの地域に生まれ育っても、デザートにはロマンがある。大海原や山並みが理屈を超えた感動を呼ぶのと同じように、言葉には出来ないマジックが漂っているんだ。

Yawning Man Live At Giant Rock / courtesy Mario Lalli
Yawning Man Live At Giant Rock / courtesy Mario Lalli

<デザートは故郷であり、骨を埋める場所>

●あなたはデザートで音楽活動を始めたのですか?

うん、最初はね。でもミュージシャンを志して1984年、ハイスクールを出てすぐにロサンゼルスに向かったんだ。後にカイアスに参加するアルフレド・ヘルナンデスやスコット・リーダーと一緒で、ナイトクラブでプレイしながら、よりシリアスに音楽を追求することにした。そのバンドがアクロス・ザ・リヴァーだったんだ。アパートに同居しながら、いろんなロック・バンドが出演するクラブのステージに立って頑張ったよ。デザートではライヴをやる場所がなかったから、夢のようだった。 レコード店もたくさんあったし、楽しかったよ。ただ、LAはあまりに人間が多くて、道も混んでいる。騒がしすぎて、結局ここに戻ってきたんだ。デザートには呼吸をするスペースがある。浜辺や山の頂上みたいな、広い世界にたった1人立っている気持ちになるんだ。これまで世界のあちこちを旅してきた。残念ながら日本にはまだ行ったことがないけど、結局自分にとってデザートは故郷であり、骨を埋める場所なんだ。

●アクロス・ザ・リヴァーの音楽は、ロサンゼルスでどのように受け入れられましたか?

LAで活動するようになって、すぐに自分たちの音楽が他のバンドと異なっていることに気付いた。デザートには音楽の“シーン”やクラブというものがなく、とにかく好きなようにやるしかなかったんだ。退屈な場所で、刺激のある都会に行きたいと思っていた。でもLAでやっていて、自分たちの音楽の毛色が異なっていて、それが武器になると気付いた。LAではパンクやニュー・ウェイヴ、メタル、フォーク...あらゆるバンドと一緒にプレイしたよ。ライヴをやらせてくれるなら、どんなバンドと一緒でも、どんなクラブでもプレイした。それでミュージシャンとして腕を磨くことが出来たし、良い経験だったな。

●“SSTレコーズ”との繋がりはどのように生まれたのですか?

LAでライヴをやるようになって、すぐにグレッグ・ギンと知り合ったし、スタッフとも友達になったよ。それでローンデイルにあるブラック・フラッグのリハーサル・スペースを使わせてもらうようになった。当時はまだブラック・フラッグにヘンリー・ロリンズが加入して間もない頃だった。俺たちは“SST”系のサッカリン・トラストやミニットメン、ミート・パペッツとも友達になったし、音楽的にも影響を受けたし、彼らと交流することで成長出来た。“SST”はアーティスト主導の、オープンな意識を持ったレーベルだった。ファッションでなく、アート表現としてのパンク・ロックを志していたんだ。“SST”絡みのライヴもたくさんやった。セイント・ヴァイタスとも一緒にショーをやったし、デズ・カデナやキース・モリス、レッド・クロスやトゥイステッド・ルーツの人たちとも友達になったよ。1985年、ライヴ・アルバムを出す予定だったけど、共同オーナーだったチャック・デュカウスキーがレーベルを去ったりして、結局発売されなかった。俺たちはLAには親しむことが出来なかったし、バンド全員でデザートに戻ることにした。1986年に戻ったから、LAには2年程度しかいなかったことになる。

●デザートに戻ってからの音楽活動について教えて下さい。

俺は大学進学のために貯金していたけど、その金で家を買うことにした。オンボロな小さい家で、ガレージを修理してリハーサルを出来るようにしたよ。その頃には俺とアルフレドとスコットにギタリストのゲイリー・アーシーといとこのラリー・ラーリが加わって、それがヨーニング・マンの始まりとなったんだ。2人とも楽器は初心者だったけど、みんなその家に住んで、バイトをしながら毎日ジャムをやったよ。それがヨーニング・マンの始まりだったんだ。スコットはジ・オブセスドに参加するために、間もなく出ていったけどね。

●初期ヨーニング・マンではどんな曲を演奏していましたか?

最初からジャムやインプロヴィゼーションをやっていた。誰かの曲をコピーすることはなかったんだ。それがヨーニング・マンの音楽性をユニークなものにしたと思う。誰かみたいになることを志すのではなく、 オリジナルな音楽性を目指したんだよ。俺は父のレストランで働いていたけど、仕事が終わると家でジャムをやるのが楽しみでならなかった。同じ4人でも、楽器をスイッチしたりね。その頃から俺はジェネレーター・パーティーを企画するようになった。それで俺たちも出演して、ライヴで腕を磨いたんだ。

●ジェネレーター・パーティーのコンセプトについて教えて下さい。

バンに機材と発電機、クーラーボックスにありったけのビールを詰め込んで、デザートのヌーディスト・コロニー跡地で一晩中ライヴをやったんだ。音楽があって広大なスペースがあって、トータルなエクスペリエンスだった。最初はヨーニング・マンだけだったけど、徐々に友人や知り合いのバンドもライヴをやるようになった。デザートの外からバンドが来たりもして、規模が大きくなって、警察に踏み込まれることもあった。それで別の場所に移ったりしたよ。

●ジェネレーター・パーティーのアイディアはどのように得たのですか?

元々は友人で西海岸パンク・ロックの顔役、デイヴ・トラヴィスのアイディアだったんだ。レッド・クロスや“SST”のバンド達を経由して知り合ったけど、彼がホンダの3500発電機を持っていて、ギターとベースのアンプ、そしてPAの電力をまかなうぐらいの出力があった。LAは都会だし、練習する場所がなかったんだ。親元に住んでいればガレージで練習出来るんだけど、俺たちはみんな他所からLAに出てきたからね。でかい音を出すにはリハーサル・スペースを借りるか、それとも倉庫を所有している友達に使わせてもらうしかなかったけど、金がなかったし、そういうわけにも行かなかった。それでデイヴはバンに楽器と発電機を積んで、ハリウッドのマルホランド・ドライヴのずっと向こうの人気のない森の中でリハーサルをすることを思い立ったんだ。さらに発展して、ライヴ友達を呼んだりして、パーティーをやるようになったんだよ。

●それが発展したのが、デザートでのジェネレーター・パーティーだったのですね。

1986年にデザートに戻ったとき、兄貴に千ドルを借りて、PAとスズキの3500発電機、それからベース・アンプを買ったんだ。本体がイエローで、ブルーで“SUZUKI”のロゴがプリントされていた。若い頃、俺はバイクが好きで、スズキの“ウォーター・バッファロー(GT750)”に乗っていたんだ。1972年製のGT750で、2ストロークの最高のバイクだった。インディオにスズキのショップがあったんだ。そこに発電機があって、店に行くたびにクールだと思っていた。最近の発電機はちっともクールじゃなくて、プラスチックみたいにチャチに見えるよな。で、それから何年も使っていたけど、自宅前に置いていたのを盗まれてしまったんだ。その後、ホンダの発電機を買って、初期のヨーニング・マンで何年も使ったよ。

後編記事ではデザート・ロックの誕生とロサンゼルスやシアトルのシーンとの関わり、マリオのもうひとつのバンド、ファットソー・ジェットソンなどについて訊いてみよう。

【海外レーベル公式サイト】

Plastic Cactus Merchandise

https://plasticactus.com/

【ヨーニング・マン Bandcamp】

Yawning Man Bandcamp

https://yawningman.bandcamp.com/

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2010年、ブラント・ビョークのインタビュー

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【インタビュー後編】ジョシュ・ホーミがもっと語るクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ『ヴィランズ』

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20170829-00075057/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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