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【光る君へ】実は出世のことで大変苦労した、藤原兼家の紆余曲折の人生

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」の見どころの一つは、藤原兼家の出世に対する執念だろう。他人を陥れてでも出世したいという気持ちは、今も昔も変わらないのかもしれない。しかし、兼家の生涯は、出世で悩まされ続けていたので、その一端を示すことにしよう。

 兼家が師輔の三男として誕生したのは、延長7年(929)のことである。師輔の長男は伊尹で、次男は兼通だった。天徳4年(960)に師輔が亡くなると、伊尹は後継者となり、順調に出世した。

 天禄元年(970)、摂政の藤原実頼が亡くなったので、伊尹が摂政と藤氏長者の地位を引き継いだ。しかし、その2年後、伊尹は病に倒れ、そのまま帰らぬ人になったのである。

 ところで、兼家と兼通が熾烈な出世争いをしたのは、有名な話である。康保4年(967)に冷泉天皇が即位すると、これまで蔵人頭だった兼通が解任され、代わりに兼家が任じられた。それだけではない。

 翌年、兼家は中納言に昇進し、天禄3年(972)には正三位・大納言に任じれられた。一連の昇進により、兼家の地位は兼通の上になった。むろん、兼通が良い思いだったとは考えにくい。兼通が仕事に熱心でなくなり、円融天皇から疎んじられたのも、へそを曲げていたからだろう。

 しかし、ここから兼通の巻き返しがはじまった。『大鏡』によると、兼通は円融天皇に対して、母后・安子(兼通の妹)の書状を差し出した。

 その書状には、将来の摂政・関白の座は、兄弟の順番で任じること」と書かれていた。安子の書状を読んだ円融天皇は、母の遺命に従おうと堅く誓ったという。しかし、これは歴史物語に書かれたことなので、疑問視する向きがあるのも事実である。

 天禄3年(972)10月、兼通は円融天皇の内覧になると、同年11月には権中納言から内大臣に一気に昇進した。翌年2月、兼通は娘の媓子を円融天皇に入内させると、7月には中宮の座を射止めた。

 天延2年(974)、兼通は正二位・太政大臣と関白に就任し、翌年には従一位に昇叙された。これにより、兼通の地位は確固たるものになったのである。しかし、相変わらず、兼通と兼家の関係は悪かった。

 貞元2年(977)10月、兼通は重い病に罹り、余命がいくばくもなくなった。兼家はこれを好機と捉え、朝廷に参内しようとした。兼通は兼家が見舞いに来るかと思っていたが、車列が自邸の前を素通りたので激怒したのである。

 死が迫った兼通は最後の力を振り絞り、除目(人事)を行った。その結果、関白の後任には藤原頼忠を指名し、兼家を治部卿へ格下げとしたのである。兼通が亡くなったのは、同年11月のことである。

主要参考文献

朧谷寿『藤原氏千年』(講談社現代新書、1996年)

倉本一宏『藤原氏 権力中枢の一族』(中公新書、2017年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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