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有名な忍城の水攻め後、なぜ甲斐姫は豊臣秀吉の側室になったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
忍城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」は主人公の「まひろ(紫式部)」をはじめ、数多くの女性が登場する。戦国時代においても女性は活躍し、中でも豊臣秀吉の側室となった甲斐姫は有名なので、取り上げることにしよう。

 甲斐姫は、成田氏長の娘として誕生した(母は横瀬成繁の娘)。生年は不詳である。甲斐姫は頭の回転が早く、しかも美しい女性だった。仮に男子ならば、後継者にふさわしい人物だったと伝わる。甲斐姫は異母妹の巻姫、敦姫の面倒をしっかり見るなど、継母との関係も良好だったという。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原城(神奈川県小田原市)の北条氏を滅ぼすべく、大軍を送り込んだ。同時に、北条氏に与した関東諸城も攻撃の対象とした。その一つが、成田氏長の居城の忍城(埼玉県行田市)だった。

 忍城の周辺は沼地であり、浮城と呼ばれていた。忍城の守備を任されたのが、城代の成田泰季、氏長の後室と三姉妹そしてわずか数百人の侍たちである。

 忍城の攻撃を任されたのは、秀吉の重臣だった石田三成である。三成は忍城が沼地に囲まれていることに注目し、周囲に堤防を築くなどして水攻めを敢行したが、作戦は失敗に終わった。実のところ、忍城の水攻めは三成が考えた作戦ではなく、秀吉に半ば強制された攻撃法だった。

 三成は苦戦しつつも攻撃を行ったが、甲斐姫は成田家伝来の名刀・浪切を振りかざし、敵陣へと切り込んだ。甲斐姫は敵兵を次々と打ち倒したので、味方を鼓舞したことに加え、敵を恐怖のどん底に陥れた。しかし、甲斐姫らの奮戦も空しく、小田原城の北条氏は降伏。成田一族も抵抗の末、秀吉の軍門に降ったのである。

 忍城が開城されると、成田泰季・長親父子をはじめ継母、甲斐姫以下の三姉妹は馬に乗って城をあとにした。その後ろには、侍衆以下、百姓や町人らも従ったが、善戦したことに胸を張って城を出たという。戦いには負けたものの、甲斐姫ら成田軍は誇らしげだったという。その後、忍城は三成によって接収された。

 戦後、秀吉は成田氏に厳しい処分を科さず、寛大にも蒲生氏郷に預けた。その後、氏長は氏郷の家臣となり、烏山(栃木県那須烏山)に2万石を与えられた。秀吉に逆らったのだから、意外にも厚遇されたといえよう。氏長は窮地を出したものの、問題は甲斐姫の扱いだった。

 『成田記』によると、戦後、甲斐姫は秀吉の側室になった。氏長が氏郷の家臣になったのは、このことが影響している可能性がある。おそらく、甲斐姫が秀吉の側室になったのは、成田一族の処遇と引き換えだったのだろう。

 その後の甲斐姫の動静は、あまり詳しくわかっていない。一方の成田氏は江戸初期に断絶し、せっかくの甲斐姫の努力は水泡に帰したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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