【光る君へ】一条天皇の即位後、藤原兼家が築き上げた新体制とは
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、花山天皇の出家後、一条天皇が即位した場面だった。天皇が変わったので、当然、人心は一新された。摂政になった藤原兼家は、どのような体制で政治に臨んだのだろうか。以下、詳しく考えることにしよう。
寛和2年(986)6月、まだ19歳だった花山天皇は、藤原道兼(兼家の子)に唆されて出家した。これにより、新天皇になったのが一条天皇である。かねて、兼家は孫の一条天皇の即位を悲願としていたので、その願いが叶ったことになる。その結果、朝廷の人事も一新されたのである。
花山天皇を支えていたのは、叔父の藤原義懐、そして側近の藤原惟成だったが、2人は天皇の出家を知ると、自らも出家して政界を去った。もはや、居場所がないと悟ったからだろう。また、当時、関白として花山天皇を支えていたのは、太政大臣の藤原頼忠だった。
しかし、一条天皇の外祖父である兼家が朝廷を掌握することに成功し、摂政になったので、頼忠は関白を辞することになった。兼家は、藤氏長者の地位も獲得した。そして、「まひろ(紫式部)」の父の藤原為時は蔵人だったが、失職したのである。
兼家の嫡男の道隆は、花山天皇が花山寺(元慶寺/京都市山科区)に逃避行した際、密かに弟の道綱とともに神璽と宝剣を東宮御所に持ち出した。この功もあり、道隆は正三位・権中納言から従二位・権大納言へと昇進した。その後、道隆は内大臣まで昇進し、摂政、関白を歴任することになった。
兼家の次男の道綱は、先述のとおり兄の道隆とともに神璽と宝剣を東宮御所に持ち出した。やはり、この功が評価され、五位・蔵人に任じられ、その後は従四位下・右近衛中将に昇進した。翌永延元年(987)になると、従三位まで一気に叙位されたのだから、その昇進スピードは計り知れないものがあった。
兼家の三男の道兼は、花山天皇を退位に追い込んだ、最大の功労者だったといえる。道兼は蔵人頭になり、その後は猛烈なスピードで昇進した。その直後には参議、そして従三位・権中納言に昇進し、右大臣まで昇進を果たした。道隆の死後に関白となったが、就任してわずか7日後に亡くなった。
兼家の五男の道長は、花山天皇が花山寺(元慶寺)に向かった際、その旨を関白の頼忠に報告した。道長は兄と同じく昇進し、一気に従四位下・左近衛少将に駆け上がると、翌永延元年(987)は従三位に叙せられ、公卿になったのである。