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戦乱が続く戦国時代。なぜ戦国大名は善政を行ったのか?その裏事情を考えてみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 世間は株価が急激に上昇して大騒ぎだが、わたしたち庶民には景気が上向いたという実感がない。相変わらずの困窮生活である。戦国時代は飢饉などがあると、戦国大名は善政を施し、農民を窮地から救おうとした。しかし、そこに裏があったのか改めて考えてみよう。

 戦国時代は戦乱が打ち続き、ときに農民は苦しい生活を強いられた。農民が苦しんだのは戦争だけではなく、悪天候に伴う災害で飢饉が発生し、生活がままならなくなったこともあった。

 そうなると、農民は領主に納める年貢が確保できず、生活苦に喘ぎ、挙句の果ては耕作地を放棄し逃亡したのである。しかし、戦国大名は決して指を咥えて見ていたわけではない。事態の解決を図るべく、対策に動いたのである。

 たとえば、明智光秀は困窮した農民を救うべく、年貢を減免した。これは、たしかな事実であり、今も丹波地方では光秀が明君であると称えられている。

 では、年貢の減免が光秀の専売特許かといえば、決してそうではなく、多くの大名が行ったのである。われわれがイメージするのは、戦国大名が年貢の減免を懇望する農民を足蹴にし、何が何でも年貢を納入せよと激しく迫るのは、もはや古い考えにすぎない。

 では、なぜ戦国大名は農民の要求を受け入れ、年貢の減免を認めたのだろうか。そもそも戦国大名は、年貢を納める農民がいなければ、とても領国の経営を維持できなかった。それゆえ、農民との良好な関係を維持することが肝要で、激しい収奪をするだけではまずかった。

 たとえ平時であっても、過酷なまでに年貢の負担を求めると、農民は耕作地を放棄して逃げ出すからである。そうなると、年貢が収められなくなるので、戦国大名は大いに困るのである。

 ましてや、農民が飢饉により農作物がほとんど収穫できず困っているのに、年貢の減免しなければ、残された手段は逃げることだけだった。そうなると先述のとおり、困るのは戦国大名のほうである。

 つまり、戦国大名が非常時に年貢の減免をするのは、最終的に自分たちが困るという事情があったからだった。むろん、領民思いの心優しい戦国大名がいたかもしれないが、あくまでそれらの政策を行った理由は、政治判断ということになろう。

 そうなると、洪水が頻発するため、川に堤防を築いた戦国大名に関しても、同じことがいえる。洪水により耕作地が大被害を受け、農作物が収穫できないと、最終的に困るのは年貢を徴収できなくなる戦国大名のほうだった。そのような事情があったので、戦国大名は勧農の一環として、堤防の工事を行ったのである。

 近世以降、そうした戦国大名の行いが善政と評価され、人々が敬ったというのが実情だろう。実は現在でも同じことで、災害などで国民が窮地に陥ったとき、税の減免をしたり、助成金を支給したりするのは、ときの政権を担う政治家があとで困るからである。困るというのは、困窮した国民を助けなかった場合、政策が悪かったと評価され、次の選挙で落選するということになろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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