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家臣に殉死を求めた、宇喜多直家の梟雄らしい最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岡山城。(写真:イメージマート)

 先月の2月14日は、宇喜多直家の命日とされ、岡山市の光珍寺で法要が営まれた。こちら。多くの人が訪れたという。直家は梟雄として恐れられた武将だが、最期に際しては家臣に殉死を求めたという。直家の最期はどうだったのか、確認しておこう。

 直家は梟雄として知られ、謀略の限りを尽くして備前、美作で台頭した。ただし、そうした話は二次史料に書かれたもので、あまりに荒唐無稽なものも少なくない。直家はライバルの浦上宗景を打倒し、さらに織田信長に味方するなどし、命脈を保っていた。

 しかし、長年にわたる戦いは、少しずつ直家の体を蝕んでいった。天正9年(1581)11月、信長は蜂須賀正勝に書状を送っているが、その中に直家の容態を記した箇所がある(「蜂須賀文書写」)。その要点を記すと、直家の病気が再発しており、回復が難しいとある。

 「永々所労」という記述を見る限り、長期間にわたって病気を患っていたと推測される。そして、備中・美作で毛利氏との交戦の最中の天正10年(1582)正月、直家はついに病死した(『信長公記』)。

 直家の病死の原因を記したものには、「下血ノ疾」とあるので、消化器系の病気であったと思われるが、やはり二次史料の記述なのでアテにならない(『浦上宇喜多両家記』)。この病気のため、直家は二年もの間、他国への出兵が叶わなかったという。

 直家の死に際しては、さまざまなエピソードが伝わっている。例えば家臣は、直家が死んだことは隠密にしようと考えたが、物乞いが川で血膿のついた絹の切れ端を拾い、その死が知られたという話がある(『浦上宇喜多両家記』)。

 また、死に際して直家は家臣に殉死を求めたが、戸川達安にたしなめられ、殉死を強いることを取り止めたという話もある(『備前軍記』)。ともに、荒唐無稽な話であり、史実として認めがたい側面があり、直家の策謀家としての側面を示した逸話にすぎない。

 直家の没後、その跡を継承したのは、いうまでもなく秀家(当時は八郎)であった。その様子については、『信長公記』に記されている。天正10年(1582)正月、宇喜多家の家老は秀吉の取次ぎにより、安土城の信長に謁見し、黄金100枚を献上した。

 「家老者共」とあるので、複数人が謁見したと考えられる。信長によって「跡職相違無き旨」(秀家が直家の跡継ぎになったこと)を確認すると、家老たちに馬を下されたという。

 同年6月、信長が本能寺の変で横死すると、羽柴(豊臣)秀吉が後継者となった。秀吉は養女の豪姫を秀家に嫁がせて、厚遇した。やがて、秀家は五大老になったものの、関ヶ原合戦で敗北し改易されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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