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【光る君へ】やりたい放題の藤原義懐は、なぜあんなに威張っているのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、権中納言となった藤原義懐が花山天皇の命令だといって、陣定(公家の会議)は当分の間、開かないと言うなど、やりたい放題である。そもそも義懐がいかなる人物だったのか、考えることにしよう。

 天徳元年(957)、義懐は伊尹の子として誕生した。伊尹は師輔の子であり、兼家の兄でもあった。天禄3年(972)、義懐は従五位下に叙爵したが、11月に摂政を務めていた伊尹が亡くなった。

 その2年後には、2人の兄が亡くなるなど、不幸に見舞われたのである。伊尹は実力者だったが、義懐はその後ろ盾を失い、将来に大きな不安を抱えることになった。

 伊尹の死後、権力の座は弟の兼通に移り、その子供たちは次々と公卿に昇進した。一方、義懐の姉の懐子は冷泉天皇の女御となり、春宮の師貞親王を産んだ。のちの花山天皇である。

 そのこともあり、義懐は天元2年(979)に春宮亮(皇太子の御所の内政を担当する職員)を務めていた。ところが、義懐の昇進は遅々としたもので、天元5年(982)にやっと従四位下に叙せられるにすぎなかった。

 永観2年(984)8月、花山天皇が即位すると、それまで冷や飯を食っていた義懐が蔵人頭という重要な地位に抜擢された。その年の10月には、一気に正三位に昇叙し、寛和元年(985)には従二位・権中納言に大出世したのである。

 この尋常ならざる昇進スピードにより、義懐は将来の摂政・関白の候補の1人になったのである。義懐が実力者になったのは、花山天皇の外戚だったからである。まだ権中納言ながらも、政治に積極的に関与し、リードしていったのである。

 当時、関白を務めていたのは藤原頼忠だったが、義懐のことをよく思っていなかった。それは、右大臣の兼家も同じだった。兼家は春宮の懐仁親王の外祖父だったので、花山天皇が早く譲位することを願っていた。むろん、自身が権力を握るためである。

 義懐は花山天皇の外戚だったので急速に昇進したが、ほかの公家たちは快く思わなかった。中でも兼家は、懐仁親王の外祖父だったので、なおさらである。同じ一族であっても心を許すことなく、激しい権力闘争を繰り広げたのである。

 しかし、ここで大事件が起こった。永観2年(984)、花山天皇は忯子(藤原為光の娘)を女御として迎えたが、忯子は寛和元年(985)に病没した。忯子は懐妊していたので、花山天皇は大いに嘆き悲しんだ。忯子は、その後の義懐の運命を大きく変えたのである。その点は、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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