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今も昔も健康は重要だった。健康オタクだった2人の戦国武将の心掛け

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 テレビをつけると、連日のように健康食品のCMが流れている。健康な生活を送りたいと思うのは当たり前のことで、それは戦国武将も同じだった。戦国武将の健康の心掛けについて、徳川家康と毛利元就という2人の例を取り上げることにしよう。

 戦国大名が健康でなければならないことは、当然のことであった。健康を保たなければ、戦乱の時代を生き抜くことができない。そして、何よりも後継者となる子孫を残すこともできなかった。

 健康に不安のある者は場合によって、不幸なことに廃嫡されることもあった。非常に厳しい時代だったのである。したがって、必然的に戦国大名は、健康を意識せざるを得なかったといえよう。

◎徳川家康(1543~1616)

 周知のとおり、徳川家康は幼少期を今川家で人質として過ごした時期がある。その間の家康の生活は非常に厳しいものだったので、質素倹約を旨とする生活が身についたという。家康の健康法は、粗食にあったといわれている。若い頃から健康食で安価な麦飯を食し、贅沢を避けていた。

 愛知県の名物に八丁味噌があるが、家康はこれを焼き味噌にしてご飯をかきこんだという逸話が残っている。もちろん、健康法だけではなく、『吾妻鑑』を講読するなど、非常に勉強熱心でもあり、武道の鍛錬も怠ることがなかったという。

 こうした質素倹約と刻苦勉励とが、家康が天下を取った大きな要因と考えられる。長生きした戦国武将は伊勢宗瑞(北条早雲)など数多いが、それぞれが独自の健康法を持っていたといわれている。

◎毛利元就(1497~1571)

 家康のような自身の鍛錬も必要だったが、医師の存在も重要であった。文禄元年(1592)9月、医師の曲直瀬道三が朝鮮出兵中の毛利輝元(元就の孫)の診療を行った。

 道三は医師として著名な人物であり、永禄9年(1566)には月山富田城(島根県安来市)を攻めていた最中に病気になった元就を診察した(『雲陣夜話』)。

 『雲陣夜話』は、医術の基礎と治療法を説いた医学書である。その翌年には、「曲直瀬道三意見書」が元就に献上された。内容は、毛利家の繁栄、武運長久を願ったもので、そのための心得を説いた意見書である。

 その内容は、医学的なものではなかった。むしろ、生活習慣や日頃の心構えを述べており、長寿が生活習慣と密接していることをあらわしている。

 天正2年(1574)、道三は『啓迪集』8巻を著した。同年、道三が正親町天皇の診療を行った際、同書を献上したので、天皇からも信頼されていたことがわかる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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