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豊臣秀頼から味方になるよう懇願されたのに、断った3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城。(写真:イメージマート)

 来年の春、大阪城の入館料が値上げするという。こちら。慶長19年(1614)に大坂の陣が勃発すると、豊臣秀頼は諸大名に味方になって欲しいと懇請したが、すべて断られた。断った武将のうち、3人を紹介することにしよう。

◎蜂須賀至鎮(1586~1620)

 慶長19年(1614)に徳川家と豊臣家が決裂した際、阿波蜂須賀家の当主だった至鎮は江戸に赴いていたが、父の蓬庵(家政)は阿波に在国していた。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、家政は出家して蓬庵と名乗り、家督を至鎮に譲っていた。そこで、秀頼は木俣半之丞に秀頼の内書(秀頼の意向を示した書状)と大野治長の副状を持たせ、使者として遣わした。

 ところが、蓬庵は決して豊臣家に与することはなかった(『森氏古伝記』)。一説によると、蓬庵は豊臣家の味方になろうとしたが、至鎮が諌止したと伝わっている(『山本日記』)。

 蜂須賀家としては、断ったのが正しい判断であり、もし豊臣家に味方していたら、滅亡していたに違いない。

◎島津家久(忠恒:1576~1638)

 豊臣秀頼は薩摩島津氏を頼るため、豊臣家に味方するよう要請した(『薩藩旧記雑録後編』)。当時、島津家の当主だった家久は、秀頼の家臣・大野治長に返書を送った。

 その内容は、「豊臣家への奉公はすでに終えており、家康に歯向かうことは思いも寄らないことだ」というものである。実に、冷たい返答だった。

 そして、家久は返書に添えて、かつて豊臣方から贈られた刀も返却した。関ヶ原合戦で島津家は豊臣方に味方し、改易こそ免れたものの、その後の徳川家との関係回復にも時間を要した。

 島津家には、そういう苦い経験があったので、二度と同じ轍を踏みたくなかったのである。この島津家の決断は正しく、敗戦による滅亡を免れたのである。

◎池田忠長(忠雄:1602~1632)

 大坂冬の陣の開戦後ではあるが、慶長19年(1614)11月、大野治長は淡路の池田忠長(忠雄)に対して、味方になって欲しいことを要請する書状を送っていた(『駿府記』)。

 忠長は輝政の子で、淡路洲本(兵庫県洲本市)に6万石を与えられていた。大坂冬の陣のとき、忠長はまだ13歳の子供にすぎず、十分な判断力はなかったので、家臣が支えていた。

 治長は忠長に味方になるように迫り、淡路の農民も豊臣方に通じていると説得した。しかし、この作戦は失敗し、遣わした6人の使者も池田方に捕らえられた。

 「廣田文書」には、関連すると思しき史料があるので、一連の治長の工作は事実とみなしてよいだろう。池田氏は、危うく騙されそうになったのだ。

◎まとめ

 大坂の陣において、豊臣家に味方する大名は皆無だったので、味方になるよう懇請された大名は困ったはずである。しかし、彼らはほぼ考えるまでもなく、豊臣家に断りの返事を入れた。このことから、最初から豊臣家に勝利する可能性がなかったことがわかる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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