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これはあまりに酷い!戦国大名が科した残酷な処刑方法3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 かねて先進国を中心にして死刑制度は廃止されており、仮に死刑を執行する場合であっても、できるだけ痛みを感じないような方法によって執行されている。戦国時代の死刑には、そのような配慮がなく、極めて残酷な死刑の方法があったので、そのうちの3つを紹介することにしよう。

◎手足を切断したあと、首を斬る

 三好長慶の被官だった和田新五郎(?~1544)は、足利菊童丸(のちの義輝)の侍女と不義密通していたことがバレた。これは、許しがたい行為である。

 そこで、天文13年(1544)、足利義晴(義輝の父)と細川晴元が相談し、新五郎を一条戻橋(京都市上京区)で処刑することが決定された。

 死刑の方法は極めて残酷で、新五郎は鋸で左右の腕を切断されると、続けて首も鋸で切り落とされた。この様子を見ていた山科言継は、前代未聞の残酷な処刑だったと自身の日記に感想を漏らした(『言継卿記』)。

 なお、新五郎と密通した侍女は、裸にされて京都市中を引き回しにされた挙句、六条河原で無残にも処刑されたのである。こちらも残酷だった。

◎鋸引きの刑

 元亀元年(1570)4月、杉谷善住坊(?~1573)は岐阜城(岐阜市)に帰る途中の織田信長を狙撃したが、失敗に終わった。杉谷善住坊が信長を狙った理由は、明らかではない。

 杉谷善住坊は謎の人物で、甲賀(滋賀県甲賀市)出身の忍者であるとか諸説あるものの、詳細は不明。その後、信長は犯人を執拗に探索し、ついに阿弥陀寺(滋賀県高島市)で善住坊を捕らえたのである。

 善住坊は尋問を受けたあと、鋸引きの刑に処された。鋸引きとは、竹製の鋸で地中に埋めた罪人の首を少しずつ切断する刑罰である。通行人などにやらせたらしい。

 フロイスの『日本史』には、刑を受けた人物の名前こそ書かれていないが、僧侶の鋸引きの刑が執行された模様を記録している。僧侶は、善住坊の可能性がある。

◎串刺しにして磔

 天正5年(1577)10月、織田信長は毛利氏、宇喜多氏を叩くべく、豊臣秀吉に播磨への出陣を命じた。これがいわゆる中国計略である。

 命を受けた秀吉は、毛利氏に与した上月城(兵庫県佐用町)に籠もる赤松七条家を討とうとした。同年11月27日、秀吉の与力の黒田孝高が活躍し、上月城近くの福原城を落としたのである。

 その後、秀吉は敵兵の首を悉く刎ねた。その上に敵方(毛利氏、宇喜多氏)への見せしめとして、女・子供2百人余を播磨・美作・備前の境目で、子供を串刺しにし、女を磔にして並べ置いたのである(「下村文書」)。

 非戦闘員がこのように残酷なかたちで処刑される例は、そう多くはない。秀吉の何が何でも、毛利氏と宇喜多氏を討つという、強い決意のあらわれでもあった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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