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宇喜多直家は幼い頃から才覚があり、謀略でのし上がってきた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岡山城。(写真:イメージマート)

 岡山城がリニューアルして1年が経過した時点で、経済波及効果が113億7千万円もあったと推計されている。こちら。岡山城を築城したのは宇喜多直家で、直家は幼い頃から才覚があり、謀略でのし上がってきたといわれている。その経緯について考えることにしよう。

 享禄2年(1529)、直家は興家の子として誕生した。興家は無能な人物で、父の能家が殺されたにもかかわらず、その敵討ちすらしなかった。

 興家の没後、直家は流浪生活を余儀なくされ、備前国の豪商・阿部善定の援助により、なんとか生活を維持した。直家は苦しい日々を乗り切ることにより、精神的にたくましく成長したと考えられる。

 ところが、直家は父に似て凡庸だったといわれているが、それは敵対勢力を欺くための仮の姿であった(『備前軍記』)。そうとは知らない直家の母方の伯母は、あまりの凡庸さに嘆き悲しんだという。直

 家は伯母に対し「もし私が人並みの器量があるとわかれば、嶋村氏(祖父の能家を謀殺した浦上氏の家臣)に殺害されるので、わざと無能な振りをして時期を待っているのです」と説明したと伝わっている。

 このとき直家は10代前半の子供だったので、すべてを鵜呑みするわけにはいかないが、のちに「梟雄」と称される謀略を行ったのだから、末恐ろしいほど頭の回転が速かったのだろう。

 その後、直家は浦上宗景に仕えると、策略を駆使して嶋村氏らを討ち、祖父・能家の仇討ちを果たした。いった、どのような方法で、直家は嶋村氏の討伐に成功したのか、詳しく考えてみよう。

 直家は敵対する浮田大和守を討ち取ると、宗景から新庄山城を与えられた。天文21年(1551)、直家は宗景の命令によって、沼城主の中山信正の娘を娶った。ほぼ同じ頃、嶋村氏と中山信正が宗景に叛旗を翻そうとしているとの噂が流れた。

 直家は、この噂を耳にしてチャンスが来たと考えた。直家は宗景を訪問すると、懐から嶋村謀叛の証拠となる書状を取り出し、嶋村氏と中山氏に謀反の噂があると告げた。

 そして、「嶋村氏は祖父・能家の敵なので、中山氏もろとも喜んで討ち取りましょう」と申し出た。直家は小さな茶亭に中山信正を招いて酒宴を催し、隙を窺って討つという作戦だった。

 事情を知らない信正は、婿の催したことなのですっかり油断し、連日のように酒宴を楽しんだ。そんなある日、直家はいつものように信正を茶亭に招くと、信正はしたたかに酔って眠りこけた。深夜になると、直家は刀で信正を斬り伏せ、宗景に烽火で合図を送ったのである。

 直家は宗景に対して、烽火をあげたら嶋村氏を寄越すよう、あらかじめ申し合わせていた。事情を知らない嶋村氏が直家のもとにやって来ると、直家は嶋村氏の軍勢を打ち破り、嶋村氏の居城の砥石山城を乗っ取った。

 こうして直家は、祖父の能家の敵討ちに成功した。その後、直家は沼城を与えられ、穝所氏などの周辺の有力領主を次々と討ち取ったのである。以降の直家は、同様の手法で版図を広げたのである。

 むろん、以上の話は、二次史料に書かれたエピソードに過ぎない。しかし、当時の戦国大名は婚姻関係を結んで同盟を締結しても、平気で裏切ることが珍しくなかった。直家も例に漏れず、情勢をしっかりと見極めて、敵を騙し討ちにすることがあったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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