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【光る君へ】清少納言と紫式部は、バチバチのライバルだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
宇治市の宇治橋と紫式部像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、『枕草子』の作者の清少納言が登場した。清少納言と紫式部はライバルだったといわれているが、その点について考えることにしよう。

 平安時代は、女流文学が花開いた時代だった。清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』はその代表であり、特に『源氏物語』は世界的にも知られている、日本文学の最高峰でもある。

 紫式部には、ほかにも日記文学の『紫式部日記』がある。日記文学としては、和泉式部の『和泉式部日記』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』、菅原孝標女『更級日記』があり、この時代の文学を語るうえで重要である。

 ところで、紫式部は日記の中で、中宮彰子にトラウマがあったと記している。彰子はある女房が得意になって中途半端な知識を自慢げに話し、それが批判されている現実を目の当たりにした。

 彰子はそれがトラウマとなり、知りもしないのにでしゃばるのは良くないと考え、その意向は周囲の女房に伝わっていた。紫式部も彰子の意向を汲み取り、仕事では余計なことをせず、手際よく行うのが良いと考えたようだ。

 ところで、清少納言と紫式部はライバルであり、互いに意識していたといわれている。紫式部の日記では、先の記述に続けて、清少納言を批判した記事を確認できる。

 その内容を確認すると、清少納言は得意になって漢文の知識を披露しているが、それはとても評価できるものではなく、こういう人は必ず失敗するだろうと述べたのだ。清少納言の言動は、まさしく彰子の方針と真っ向から対立するものだった。紫式部は、そうした清少納言を批判したのだ。

 紫式部と清少納言はライバルだったというが、実は面識がなかった可能性がある。寛弘3年(1006)12月、紫式部は彰子に出仕したが、清少納言が仕えた中宮定子は長保2年(1000)12月に亡くなった。

 以降、清少納言は出仕することがなかったという。互いに名前くらいは知っていたが、実際に顔を合わせて話をした可能性はなかったのかもしれない。

 実は、紫式部が批判したのは、清少納言だけではなかった。和泉式部に対しては、和歌はうまいが男性との関係がよろしくないと批判し、赤染衛門の和歌に対しても、舌鋒鋭く批判を展開している。しかし、なぜ紫式部は清少納言を批判したのだろうか。

 紫式部が清少納言を批判したのは、清少納言が漢文の知識もろくにないのに、得意げになって話すのが嫌だったのだろう。漢文だったら、自分のほうが知識があると考えたに違いない。

 また、自分が仕える彰子は、浅薄な知識を披露する人物を嫌がった。その代表として、特に面識がない清少納言を引っ張り出した可能性がある。

主要参考文献

角田文衛『紫式部とその時代』(角川書店、1966年)

今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985年)

沢田正子『紫式部』(清水書院、2002年)

山本淳子『『源氏物語の時代』一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書、2007年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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