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兵糧攻めで有名な三木合戦。本当に別所長治は2年も飲まず食わずで抵抗したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 東京大史料編纂所の村井祐樹准教授と兵庫県立歴史博物館の調査により、羽柴(豊臣)秀吉に宛てた34通の書状が発見されたという。こちら。その中には、三木合戦にまつわる史料もあるので、同合戦の経緯などについて考えることにしよう。

 天正6年(1578)2月以降、三木城(兵庫県三木市)主の別所長治は、籠城して織田信長方の羽柴(豊臣)秀吉に徹底抗戦を挑んだ。当初、長治は信長に与していたが、突如として裏切ったのである。毛利輝元らの寝返りの依頼に応じたのだ。

 その理由は、名門の別所氏が秀吉のような身分の低い者に従えないとか、秀吉が別所氏の提案した作戦を拒否したなどの諸説がある。近年、発見された書状によると、別所氏と秀吉が揉めていたことは事実で、信長が仲裁に入ったことが指摘されている。

 秀吉は中国計略(毛利氏の討伐)に際し、別所氏ら播磨衆を頼りにしていたので、その裏切りには驚倒した。別所氏に従った播磨衆も大勢いたので、秀吉はたちまち窮地に陥ったのである。

 しかし、別所氏の味方の毛利氏は、最初こそ戦いを有利に展開したが、大坂本願寺との連携がうまくいかないこともあり、徐々に形勢は逆転した。秀吉が採用した作戦は、三木城の周囲に付城を築き、兵糧の搬入ルートを断つことだった。秀吉の兵糧攻めによって、三木城の城兵は飢えに苦しんだ。

 天正8年(1580)1月6日になると、戦局は一気に動いた。かねて秀吉は、三木城から煙が出ないので不審に思っていた。つまり、煙が出ない理由は、食事を作っていない証拠で、兵が衰弱していると予想した。

 そこで、秀吉が三木城に攻撃を仕掛けると、まず三木城から60mほど離れた宮山の構を乗っ取った。同城を守備した別所彦進が三木城本丸へと逃亡すると、秀吉軍は1月11日には南の構を落としたのである。

 秀吉軍は余勢をかって、別所友之(長治の弟)の鷹尾城と別所賀相(長治の叔父)の新城を攻略し、鷹尾城には秀吉が、新城には羽柴秀長(秀吉の弟)がそれぞれ入城したのである(「反町文書」など)。

 別所氏には毛利氏からの援軍が期待できず、もはや抵抗する術はなかった。この時点で、別所氏の敗北は決まっていたのである。同年1月17日、秀吉方の別所重棟は、三木城内の長治、賀相、友之に切腹を促した。その交換条件として城兵を助命すると伝え、秀吉もこの条件を了承したのである。

 ところで、三木合戦において、別所氏は2年にわたる籠城戦を戦い抜き、飲まず食わずで奮闘したように思われた。しかし、現実的な問題として、不可能なのは明らかである。秀吉が付城で兵糧の搬入ルートを遮断したとはいえ、何らかの方法によって、城内に兵糧を持ち込んだ可能性があろう。

 しかし、時間の経過とともに兵糧の搬入が困難となり、やがて城内の兵糧が尽きたというのが妥当と考えられる。秀吉軍の猛攻に対しては、さすがの毛利氏も三木城に兵糧を搬入することを諦めたに違いない。こうして三木城内の兵糧は尽きた。

 『信長公記』では、三木城内で将兵が飢えに苦しんだ姿をことさら強調するが、それは落城寸前の模様を描いたにすぎない。信長に逆らった者は、悲惨な末路をたどることを強調したきらいがある。昔から「腹が減っては戦ができぬ」というが、それは正しいのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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