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鎌倉公方の足利持氏は、なぜ室町幕府に反抗し、永享の乱で自害したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 今から585年前の永享11年(1439)2月10日は、鎌倉公方の足利持氏が室町幕府の軍勢に敗れ、自害して果てた日である。なぜ持氏は室町幕府に反抗し、自害する羽目になったのだろうか。その辺りを取り上げることにしよう。

 室町幕府の4代将軍の足利義持は、父の義満の後継者として順風満帆な政治運営を行っていた。しかし、応永32年(1425)、将軍職を譲った子の義量が幼くして亡くなると、自らも正長元年(1428)に病没したのである。

 義持は自分が後継者を指名しても、重臣が支えなければ意味がないと考え、生前に後継者を誰にするのか遺言しなかった。その結果、次期将軍は僧籍にあった義持の弟の中から籤で選ぶことにし、義円(のちの義教)が6代将軍に就任することになったのである。

 この結果に不満を抱いたのは、ほかならぬ持氏だった。持氏は義持の猶子でもあり、将軍候補の一人であると考えていた。それが叶わず、僧侶だった義教が還俗し、次の将軍になったことに納得しなかったのだ。

 持氏は義教の将軍就任に際して、使者を送って祝うこともなく、「還俗将軍」と罵倒したとさえいわれている。また、年号が「正長」から「永享」に改元しても、反抗の意を示すべく「正長」の年号を使い続けた。こうして持氏は、義教との対立を深めていったのである。

 永享10年(1438)6月、賢王丸(持氏の嫡男)が元服した際、実名を義久とした。このことが大問題になったのである。というのも、本来は将軍の名前の一字を与えられ、新たに名乗るのが通例だったが、持氏はそれを無視したのである。

 持氏も義持の一字を与えられていたのだから、それくらいのことは知っていたはずである。しかも、あろうことか、嫡男の名に将軍の通字の「義」を用いたのだから、事態は深刻なものとなった。

 同年8月、関東管領の上杉憲実が上野国に無断で帰国したので、持氏は反逆の意ありとし、討伐軍を差し向けた。義教は憲実を救うべく、駿河守護今川範忠らに持氏の討伐を命じた。持氏の討伐に際しては、朝敵を意味する治罰綸旨が発給されたので、持氏は不利になった。

 持氏の軍勢は、味方の裏切りが相次いだこともあり、幕府軍に敗れた。その後、義教との和睦を模索したが、それは実現しなかった。持氏は鎌倉の称名寺で出家したが、永享11年(1439)2月10日に憲実の率いる軍勢が乱入したので、自害したのである。

主要参考文献

田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館、2002年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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