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平清盛が娘の徳子を高倉天皇に入内させ、2人の間に安徳天皇が誕生した歴史的意味

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛。(提供:アフロ)

 今から852年前の承安2年(1172)2月10日は、高倉天皇に入内した徳子(平清盛の娘)が立后して中宮となった日である。その6年後、2人の間に安徳天皇が誕生したので、清盛はさらに威勢を増すことになった。その辺りの事情を探ることにしよう。

 徳子が清盛の娘として誕生したのは、久寿2年(1155)のことである。母は、平時信の娘の時子だった。父の清盛は保元の乱、平治の乱で勝利し、後白河上皇との関係も良好だった。後白河上皇が院政を開始すると、清盛は内大臣に抜擢され、その関係はますます強固になったのである。

 承安元年(1171)に高倉天皇が元服すると、徳子の入内の話がにわかに注目された。清盛からすれば、徳子が高倉天皇に入内し、授かった子が天皇になれば、外祖父として権勢を振るうチャンスとなった。

 一方、後白河上皇にとっても、清盛のさらなる助力が期待できたので、決して悪い話ではなかった。結局、この話はまとまったが、そこには朝廷と清盛の対立を回避するという、政治的な思惑もあった。

 徳子が高倉天皇に入内したのは、同年12月のことである。そして、承安2年(1172)2月10日、徳子は立后して中宮となったのである。ところが、徳子はすぐに子に恵まれなかった。

 その一方で、高倉天皇は乳母と小督局との間に子をもうけた(功子内親王、範子内親王)。清盛はあまりのことに激昂し、小督局を追放したというが、史実ではないと指摘されている。

 一説によると、2人の結婚は政略によるものだったので、あまり仲が良くなかったといわれているが、そんなことはないだろう。当時はそれが当たり前のことで、側室との間に子ができることも当然のことだった。

 治承2年(1178)5月、ようやく徳子は懐妊した。その後、朝廷は出産の無事を願って祈禱を催し、その半年後に子を授かった。のちの安徳天皇である。

 翌年11月、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉すると、治承4年(1180)に安徳天皇が即位した。高倉天皇は不本意ながらも譲位し、院政を開始したのである。

 しかし、この頃から反平家の動きが顕著となり、以仁王の挙兵、園城寺・興福寺なども反抗的な態度を見せた。平家の威勢には、陰りが見えていたのである。

 翌年1月、病に伏せていた高倉上皇は、失意のうちに21歳で亡くなった。同年閏2月、清盛もあとを追うように病死したのである。清盛は安徳天皇の外祖父として権勢を振るおうとしたが、その野望はわずかな期間で終わったのである。

 清盛の死後、平家は坂道を転がるように凋落し、元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡し、安徳天皇も亡くなったのである。清盛は徳子を利用して平家の繁栄を願ったが、それは無残にも打ち砕かれたのである。

主要参考文献

角田文衛 『平家後抄 落日後の平家』(講談社学術文庫、2000年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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