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武田勝頼は、なぜ織田信長に敗れて滅亡したのか。その当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田勝頼。(提供:イメージマート)

 今から442年前の天正10年(1582)2月9日は、織田信長が武田氏を滅亡に追い込むため、出陣命令を発した日である(『信長公記』)。それから2ヵ月もしないうちに、武田氏は滅亡に追い込まれた。以下、その経緯を詳しく取り上げることにしよう。

 信長の挙兵の前後、武田勝頼は窮地に陥っていた。親類衆の木曽義昌が信長に寝返り、諸大名はこぞって信長に味方した。上杉景勝が頼りだったが、武田氏は上杉氏からも見放されていた。

 同年3月3日、武田氏の家臣だった穴山梅雪は徳川家康の軍勢を案内し、勝頼の籠る新府城を目指した。武田家の一門や家老らは勝頼を見限り、早々に逃げ出したという。親族衆の武田信豊は、小諸城(長野県小諸市)で籠城したが、城代の下曽根浄喜に裏切られ、母や嫡男とともに自害して果てた。

 危機迫る状況の中、勝頼の嫡男・信勝は、新府城での籠城を主張したが、武田氏の重臣・真田昌幸は岩櫃城(群馬県吾妻城)へ逃れることを提案した。しかし、最終的に勝頼は岩殿城を目指すことを決断した。

 同年3月3日、勝頼は新府城に火を放つと、家臣の小山田信茂を頼り、岩殿城(山梨県大月市)に向かうことにした。勝頼の一行は岩殿山城へ近づいたが、信茂は受け入れなかったという(『信長公記』)。勝頼は信茂に裏切られたので、もはやなす術はなく、天目山に向かったのである。

 3月11日、天目山の郷人たちが勝頼を裏切った。大将の辻弥兵衛が勝頼に攻撃を仕掛けると、織田方の滝川一益、河尻秀隆は5千余人の軍勢を率い、背後から攻撃を仕掛けたのである。

 勝頼は信勝に武田氏に伝わる重宝の御旗・楯無を持ち、奥州に逃げるよう命じた。しかし、信勝は勝頼が北条氏政の娘婿だったので、氏政が匿ってくれると考えて逃亡を勧めた。また、信勝は信玄の遺言により、武田家の家督を申し付けられたので、ここで切腹をすると覚悟を示したのである。

 その間も戦いは続き、勝頼の近くで奮戦していた土屋昌恒は、敵の槍に突かれ戦死した。勝頼は昌恒の体に刺さった槍を引き抜くと、そのまま敵6人を切り伏せたが、喉と脇の下に3の槍を突かれ、織田方に首を取られたという。享年37。

 しかし、勝頼の奮戦ぶりは誤りとされており、勝頼とその妻、信勝は自害したというのが正しい。その後、信長配下の滝川一益から信忠(信長の嫡男)のもとへ、勝頼、信勝の首が届けられたのである。

 武田氏は天正3年(1575)の長篠合戦で信長に敗れてから、急速に衰えたというイメージがあるが、実際はそうではなかった。もし、それが事実ならば、もっと早く武田氏は滅びたはずである。

 実際には上杉氏との甲越同盟が機能せず、信長との和睦交渉もうまくいかなかった。親類衆の木曽義昌までもが勝頼を裏切ったので、それが大きなきっかけになった。そうした失敗が重なり、勝頼は諸大名や家臣から見放されたといえよう。

主要参考文献

柴辻俊六『武田信玄合戦録』(角川選書、2006年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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