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名軍師といわれた竹中半兵衛は小便を掛けられたので、稲葉山城を乗っ取ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 今から460年前の永禄7年(1564)2月6日は、竹中半兵衛重治が主君の斎藤龍興の居城・稲葉山城(岐阜市)を乗っ取った日である。重治は斎藤飛騨守の配下の者に城壁から小便をかけられ、報復として稲葉山城を乗っ取ったといわれているが、その真相を確かめることにしよう。

 天文13年(1544)、重治は重元の子として誕生した(初名は重虎)。重治の初陣は、弘治2年(1556)の斎藤道三と義龍父子の戦いだった。当時、13歳だった半兵衛は父とともに道三に与し、弟・久作や母とともに義龍の軍勢を追い払ったという。

 永禄元年(1558)、重治は父とともに岩手弾正道高を攻め、岩手城(岐阜県垂井町)を手に入れた。以降、竹中氏は岩手城を本拠とし、相前後して斎藤義龍に仕えた。永禄3年(1560)または永禄5年(1562)、重治は竹中家の家督を継いだ。

 重治が14・5歳の頃、「西美濃三人衆」の1人の安藤守就の娘を妻として迎えた。永禄4年(1561)5月に義龍が病死すると、龍興があとを継いだ。重治を語るうえで欠かすことができないのは、稲葉山城の乗っ取り事件である。以下、諸書の伝えるところにより、概要を取り上げることにしよう

 永禄7年(1564)1月、重治が稲葉山城に登城した帰り、斎藤飛騨守の配下の者に城壁から小便を掛けられたという。このとき重治は、屈辱を晴らすことを堅く誓い、のちの稲葉山城の乗っ取り事件のきっかけになったという。しかし、この話はあまりに荒唐無稽であり、とても史実と認めるわけにはいかない。

 同年2月6日、重治は舅の安藤守就とともに、白昼から堂々と稲葉山城に乗り込み、斎藤飛騨守を切り伏せた(『竹中家譜』など)。重治が稲葉山城を占拠すると、龍興は脱出したのである。

 こうして、西美濃一帯は内戦状態になったのである。重治らが稲葉山城を占拠したのは紛れもない事実であり、諸勢力を糾合して器量のない龍興を追放し、クーデターを実行したのである。

 その後の重治の動きは、信頼性の高い一次史料で裏付けられる。同年6月以降、重治は徳山氏や国枝氏に書状を送り、越前の朝倉氏と結ぶための交渉役を依頼した。同時に美濃国一帯に軍事行動を展開していることを確認できる。

 重治による稲葉山城占拠は、同年8月頃まで約半年続いた。信長が重治に美濃半国と稲葉山城の交換を要求した際、重治は「龍興に反省を促したのであって、一時的に城を預かったまで」と返答した。重治は城を龍興に返還すると、そのまま隠棲したという(『甫庵太閤記』)。

 最近の研究によると、舅の守就の勢力が大きかったので、守就が主導してクーデターを実行したといわれている。守就らは奇襲により稲葉山城を奪ったものの、龍興らが抵抗し続けたため、意外に苦戦した。

 そうした経緯もあり、重治らは稲葉山城を放棄せざるを得なくなったのが実情だった。「龍興に反省を促すため」という理由は、単なる創作にすぎないだろう。

 甲斐国恵林寺(山梨県甲州市)の高僧・快川の書状には、一連のクーデターに関する感想が書き記されている。快川は龍興の稲葉山城脱出を喜ぶとともに、重治と守就の行為に強い不快感を示している。

 2人のクーデターが美濃一国に広がらなかったところをみると、美濃国内の諸将から賛同が得られなかったと考えられる。クーデターは、失敗に終わったのだ。

主要参考文献

池内昭一編『竹中半兵衛のすべて』(新人物往来社、1996年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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