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前田慶次の豪快なエピソードは史実なのか?その謎を考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 過日、関鍛冶伝承館で「関鍛冶と戦国日本刀展」が催されるという報道があった。目玉は、再現された前田慶次所用の「皆朱(かいしゅ)の槍」だ。こちら

 慶次は小説やマンガなどですっかりお馴染みになった人物であるが、その生涯には謎が多いので、以下、検証することにしよう。

 慶次の生没年は、諸説ある。生年は天文元年(1532)のほかにいくつかの説があり、没年も慶長10年(1605)、慶長17年(1612)とする説がある。

 慶次に関する史料としては、『前田慶次道中日記』という史料があるが、豪快なエピソードの多くは『常山紀談』、『翁草』といった後世に成った書物に書かれている。

 いずれも史料としては信頼度が劣るが、慶次を取り上げた小説やマンガなどは、それらの書物を参考にし、さらに内容をおもしろくするため、脚色を加えたものなのである。

 慶次は前田利家の配下にあったので、血縁関係にあるように思われているが、実はそうではない。慶次の父は滝川一益の一族とされているが、ほかにも説があり、確定していないのである。

 また、名前は「慶次」と称されているが、近年では「利益」と呼ぶのが正しいと指摘されている。「利益」とは、滝川家の通字の「益」と前田家の通字の「利」を組み合わせたものと推測されている。

 慶次の養父は前田利久(利家の兄)なので、利家の義理の甥になる。利久には跡継ぎがいなかったため、慶次を養子に迎えたという。最初、慶次は利家に仕えたが、天正18年(1590)に前田家を出奔し、慶長3年(1598)から数年間にわたり、上杉景勝に仕官したといわれている。

 慶次は、利家から何度も素行の悪さを注意されていた。ある日、慶次は利家の屋敷を訪れると改心する旨を伝えた。そして、利家をもてなすため自宅に来てほしいと申し入れたので、利家は慶次が改心したと喜んだ。

 利家が慶次の屋敷を訪ねると、風呂に入るよう勧められた。当時、風呂は最高のもてなしである。ところが、利家が風呂に入ると、それは水風呂だった。利家は激怒したが、すでに慶次は愛馬の松風に乗って逃げていたという。

 慶次が景勝に仕官する際、手土産に大根を3本持参し、「大根は見かけが悪いものの、噛めば噛むほど味がでるのは拙者も同じである」と景勝に述べたという。慶次は、自分を大根に例えたのだ。

 慶次が会津に移った頃、ある男が傲慢な林泉寺(新潟県上越市)の和尚を殴りたいと述べた。そこで、慶次は林泉寺の和尚に碁での勝負を挑み、勝った場合は負けた者を殴るという条件をつけた。慶次は2局目に和尚に勝ったので、その顔面を殴りつけて逃げたという。

 慶次は傾奇者として、決して権力におもねることなく、自由奔放に生きた。多くの人を魅了し共感させたのは、それらを裏付ける豪快な数々のエピソードである。

 ただし、そうしたエピソードは、史料的な価値が低い後世の編纂物におもしろおかしく書かれたもので、史実とは認めがたいものばかりである。いまだに、慶次の実像は謎が多いといわざるをえないのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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