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織田信長は宿敵の斎藤龍興を敗走させたあと、なぜ岐阜を本拠に定めたのか。納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岐阜城。(写真:イメージマート)

 過日、岐阜市は岐阜公園「戦国歴史ゾーン」遊歩道を整備し、岐阜城の景観を再現する再整備計画改定案を発表した。こちら。岐阜城は織田信長の居城にもなったが、なぜ尾張から美濃に本拠を移したのであろうか。その理由を考えることにしよう。

 永禄10年(1567)、信長は斎藤龍興を伊勢長島(三重県桑名市)に敗走せしめると、のちに小牧山城(愛知県小牧市)を離れて岐阜城を本拠に定めた。

 岐阜城は稲葉山城(あるいは井口城)と呼ばれていたが、天正3年(1575)に信長は城のある井口を岐阜と改称し、稲葉山城も岐阜城と改称した。岐阜への改称については、政秀寺(名古屋市中区)の沢彦宗恩が命名したという説がある。

 岐阜の由来については、次の2つの説がある。

①「岐」は、「周の文王が岐山から起こり、天下を定める」という中国の古事に倣ったもので、「阜」は儒教の祖・孔子が生まれた「曲阜」の一文字を採用し、太平と学問のちになるよう願ったという説。

②「岐山」「岐陽」「岐阜」は中国でも縁起が良い地名といわれており、その中から選択したという説。

 しかし、室町中期の禅僧・万里集九の詩文集『梅花無尽蔵』によると、信長が岐阜に改称する以前から、「岐阜陽」と称されていたことが明らかになっている。また、『仁岫録』という史料にも「岐陽」としてあらわれている。

 信長は岐阜城の整備に着手し、その居館跡からは金箔瓦が発見されている。天守も南蛮様式を取り入れた壮麗なものであり、麓には城下町が形成され、家臣や小牧山や清須から呼び寄せた商工業者を住まわせた。

 岐阜を訪れた宣教師のルイス・フロイスは、岐阜の町では取引や用務で人々がおびただしく往来し、バビロンの混雑を思わせる繁栄ぶりで、全国各地から塩、反物などの商品を携え、岐阜にやって来たと『日本史』に書き残した。

 信長が小牧山から岐阜に本拠を移したのは、さまざまな理由が考えられる。当時、甲斐武田氏が信濃に侵攻しており、美濃を経て尾張に侵攻することが予想された。

 一つ目の理由としては、武田氏への対策が考えられる。また、来るべき上洛を想定した場合、尾張よりも美濃のほうが京都に近いという事情があった。これが二つ目の理由である。

 信長はもともと文書に自身の花押を据えていたが、やがて「天下布武」の朱印を用いるようになった。この文字を撰したのが、先述した沢彦宗恩であった。

 古代中国の楚の荘王は「「武」には、戦功を固めて戦争をやめる意味がある。したがって「止=とどめる「と「戈=戦争」から「武」は作られる」(『春秋左氏伝』)と言ったといわれ、「武」には戦争抑止力という意味があることがわかる。

 つまり、信長が岐阜を本拠に定めたのは、武田氏対策そして上洛への布石という大きな理由があった。事実、永禄11年(1568)、信長は足利義昭を推戴し、念願だった上洛を果たしたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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