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源頼朝に滅ぼされた平家。その元凶となった3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛の銅像。(写真:イメージマート)

 1月28日、香美町の御崎地区において、伝統行事「百手(ももて)の儀式」が行われた。こちら。同地には平家の落人伝説が残り、この行事は800年以上も続いているという。平家は元暦2年(1185)に滅亡したが、もちろん理由があった。その元凶となった3人の人物を取り上げることにしよう。

◎平清盛(1118~1181)

 平清盛は保元の乱、平治の乱に勝利して、仁安2年(1167)には太政大臣まで昇進した。さらに娘の徳子を高倉天皇の後宮に送り込み、二人の間には安徳天皇が誕生した。清盛は外祖父として、大いに権勢を振るうことになった。清盛は一門を高位高官に昇進させ、我が世の春を謳歌したのである。

 しかし、後白河法皇らは清盛の台頭を恐れた。反平家の動きが見られるようになると、清盛は反対派を粛正し、あろうことか後白河法皇を幽閉する暴挙にも出た。

 その結果、源頼朝ら東国武士の決起を促すことになり、平家は危機に陥ったのである。清盛の最期は猛烈な熱病で、水を掛けると熱湯になり、たちまち蒸発するほどだったという。それは大袈裟としても、清盛がいかに嫌われていたかがわかる。

◎平宗盛(1147~1185)

 清盛の死後、平家を率いたのが子の宗盛である。『平家物語』などは、宗盛を情けない人物として描いている。元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いにおいて、平家一門の面々は潔く戦って討ち死にするか、次々と海に飛び込み命を絶った。

 しかし、宗盛は戦うだけの根性もなく、海に飛び込むだけの勇気もなく、ただおろおろとするばかりだった。すると、その状況を見かねた平家の武将の一人が、宗盛をいきなり海に突き落とした。

 しかし、宗盛は泳ぎの達人だったので溺れず、源氏の将兵に助けられた。その後、宗盛は子の清宗とともに鎌倉へ連行された。源頼朝の前に引きずり出された宗盛は、なんと命乞いをしたのである。

 それを見ていた御家人たちは、あまりの情けない態度に罵声を浴びせ、嘲笑したと伝わる。そして同年6月、宗盛は子の清宗らとともに斬首され、平家は滅亡したのである。

◎平時忠(1130?~1189)

 時忠は平家一門で、清盛の栄達に伴い恩恵を受けた。『平家物語』によると、時忠は平家の公達の威勢を誇るべく、「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と述べたという。この言葉は、のちに「平家にあらずんば人にあらず」と言われるようになった。

 このような驕り高ぶりが、平家を滅亡に導いたのかもしれない。しかし、最近の研究によると、「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」の「人非人」とは「平家以外の人々は人間ではない」という意味ではなく、「宮中で栄達できない人」くらいの意味だったという。

◎まとめ

 率直に言えば、平家が滅亡した理由は実に複雑である。しかし、人間は栄達を遂げると調子に乗って、慢心や驕り高ぶりが出るものである。また、世襲という問題もあろう。平家にもそういう面が見られたので、それが滅亡の一因になったのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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