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七将に襲撃された石田三成が徳川家康に助けを求めたというのは誤りだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伏見城の残石。(写真:イメージマート)

 過日、大倉喜八郎の迎賓館「蔵春閣」(新潟県新発田市)のイメージは、桃山御殿つまり伏見城のイメージであるとの記事を拝読した。こちら

 伏見城は豊臣秀吉が築城し、大坂城と並ぶ豊臣家の拠点だった。伏見城の周囲には、諸大名が屋敷を構えており、今もその名残が地名に残っている。

 慶長4年(1599)閏3月、前田利家が亡くなると、七将と称される7人の大名が石田三成を襲撃し、殺害しようとしたという。三成は伏見(京都市伏見区)まで逃亡し、徳川家康に助けを求めたというが、その話が事実なのか考えてみよう。

 慶長4年(1599)閏3月、五大老の長老格だった利家が亡くなると、三成に恨みを持っていた福島正則ら7人の大名は、大坂城下の三成の屋敷を襲撃した。

 事前に襲撃の動きを察知した三成は、伏見を目指して逃亡した。しかし、七将は諦めることなく、三成を追撃した。窮地に陥った三成は、家康の伏見屋敷に飛び込み、助けてほしいと懇願した。最初、家康は大変驚いたが匿うこととし、七将は本懐を遂げられなかったのである。

 結論を先に言えば、この話は小説、映画、テレビドラマにおける創作であって、後世に成った二次史料にすら取り上げられていない。つまり、七将による石田三成襲撃事件は疑問視されている。

 最近の研究によると、大坂城下にいた三成は、最初は佐竹義宣の屋敷に逃れていたという。その後、三成が伏見に逃れたのは事実であるが、逃げ込んだ先は家康の伏見屋敷ではなく、三成自身の伏見屋敷だったと指摘されている。三成が家康の伏見屋敷に逃げ込んだならば劇的かもしれないが、今では誤りとされている。

 さらに、従来の説によると、七将の面々は「襲撃」と称されるように、三成の殺害を企図していたかのように思われるが、実際はそうではなかった。諸史料を確認すると、「訴訟」という言葉が散見する。

 これは裁判というよりも、三成のさまざまな非道を訴えたのではないかと指摘されている。その結果、家康や北政所(秀吉の妻)が仲裁に入り、三成を佐和山(滋賀県彦根市)に逼塞させることで、七将は納得したようである。

 このほかにも論点はさまざまあるが、七将襲撃事件とは七将が三成を訴えたものであり、そもそもは大坂での出来事だった。ところが、三成が伏見に逃亡したので、舞台は伏見へと移った。

 三成の伏見逃亡後、家康や北政所(秀吉の妻)が仲裁に入り、無事に解決したのである。その結果、家康は五大老の筆頭として与党の形成に成功し、これが関ヶ原合戦の勝利につながったのである。

主要参考文献

笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件―歴史認識形成のメカニズムとその陥穽―」(『日本研究』22集、2000年)

水野伍貴「前田利家の死と石田三成襲撃事件」(『政治経済史学』557号、2013年)

水野伍貴「石田三成襲撃事件の真相とは」(渡邊大門編『戦国史の俗説を覆す』柏書房、2016年)

白峰旬「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は「武装襲撃事件」ではなく単なる「訴訟騒動」である ―フィクションとしての豊臣七将襲撃事件―」(『史学論叢』48号、2018年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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