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蒲生氏郷を毒殺したのは、豊臣秀吉か?それとも石田三成か?その真相とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
興徳寺・蒲生氏郷墓所標柱。(写真:イメージマート)

 今月24日、松阪ロータリークラブ(三重県松阪市)が私立松阪乳幼稚園で職業奉仕例会を開き、園児が戦国武将の蒲生氏郷の生涯を解説したという。こちら。実は氏郷の死因には謎が多く、豊臣秀吉や石田三成が毒殺したともいうが、その辺りを検討することにしよう。

 弘治2年(1556)、蒲生氏郷は賢秀の子として誕生した。氏郷は父とともに織田信長に仕えていたが、信長の死後は羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。

 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い後、氏郷は伊勢松ヶ島(三重県松阪市)に加増され、天正18年(1590)には会津(福島県西部)に42万石を与えられた。氏郷は東北諸大名への押さえとして、秀吉に重用されたのである。

 文禄元年(1592)に文禄の役が勃発すると、氏郷は肥前名護屋(佐賀県唐津市)に出陣したが、急に体調が悪くなり、翌年11月には会津へ帰国した。

 ところが、氏郷の病状は良くならず、悪化する一方だった。文禄3年(1594)、氏郷は京都で医師の曲直瀬玄朔による治療を受けたが、治ることはなかった。翌年2月7日、氏郷は京都伏見(京都市伏見区)の自邸で亡くなったのである。

 諸記録を見ると、氏郷が病気で亡くなったのは明確だが、かねて秀吉あるいは三成が毒殺したとの説がまことしやかに伝わった。氏郷の一代記、『氏郷記』には、文禄4年(1595)に三成が秀吉と共謀し、氏郷に毒を盛って死に至らしめたと書かれている。

 しかし、後世に成った『氏郷記』は内容に脚色が多く、史料の質としては劣るといわれている。また、当時の三成は朝鮮に在陣していたので、氏郷に毒を盛るのが不可能だったので、現在では否定された説である。

 三成が氏郷を毒殺したという説は、『石田軍記』、『蒲生盛衰記』などにも書かれており、中には三成が直江兼続(上杉景勝の家臣)と共謀して行ったと記されているものもある。『石田軍記』、『蒲生盛衰記』も『氏郷記』と同じく後世に成ったもので、内容に不審な点が多く信用することができない。

 氏郷が病気になった際、秀吉は医師を手配して治療を行わせた。治療をしたのは曲直瀬玄朔のほか、施薬院全宗や一鷗軒宗虎などの名医が交代で行ったという。

 曲直瀬玄朔の残した『医学天正記』によると、氏郷の死因は直腸癌、肝臓癌あるいは肝硬変ではないかとされている。ただし、当時の医療技術で病名を特定するのは難しく、あくまで推測の域を出ないことに注意すべきだろう。

 氏郷の死因は病死とするのが妥当であり、それは複数の良質の史料で裏付けられるので、特段疑うべき理由はないと考えられる。逆に、秀吉や三成による毒殺は信頼度の低い史料に書かれたものなので、現時点では信が置けず否定されている。

主要参考文献

藤田達生『蒲生氏郷』(ミネルヴァ書房、2012年)。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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