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大坂夏の陣で、なぜ難攻不落の大坂城は落城したのか。その納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城。(写真:イメージマート)

 過日の報道では、大坂城再建で使われなかった「残念石」が取り上げられていた。大阪・関西万博でトイレの柱に使用されるらしい。こちら

 慶長20年(1615)5月、大坂城は徳川方に攻め込まれ、呆気なく落城した。豊臣秀頼も淀殿も城内で自害したので、豊臣家も断絶した。難攻不落として知られていた大坂城は、なぜ落城したのか、詳しく検証することにしよう。

 豊臣秀吉は天正11年(1583)から約3年もの歳月をかけて、大坂城を築城した。五層八重の天守のある本丸、二の丸、三の丸に加えて、惣構も構築されるなど、天下人にふさわしい大城郭だったといえる。周囲は約4里(約16キロメートル)というのだから、いかに広大だったかが理解できよう。

 慶長19年(1614)11月に大坂冬の陣が開戦すると、豊臣方は籠城戦を選択した。一説によると、牢人衆は打って出る策を献言し、籠城戦を主張する豊臣方の首脳と対立したという。

 しかし、この話は二次史料に書かれたもので、必ずしも信が置けない。大坂城は大阪湾にも近く、その堅固な惣構と深い堀は、敵を跳ね返すだけの堅固さを誇っていた。籠城戦は、決して悪い選択ではなかったといえる。

 徳川方と豊臣方の戦いは膠着状態となり、やがて和睦の気運が生じてきた。その際の和睦の条件はいくつかあるが、大坂城に限って言えば、惣構などの破却、堀の埋め立てが重要である。

 それらを実行すれば、大坂城は「裸城」になり、完全に防御機能を失うことになる。裏返して言えば、豊臣方は「もう徳川家には歯向かいません」と宣言したようなものである。

 惣構などの破却、堀の埋め立ては、徳川家康の謀略であるとの説もある。家康は最初から和睦する気はなく、大坂城の防御機能を失わせたうえで、再度戦いを挑む計画だったというが、この話は疑わしい。当時の史料を読むと、惣構などの破却、堀の埋め立ては、双方の合意事項だったことを確認できる。

 しかし、その後、豊臣方は和睦の条件の一つである、牢人を大坂城外に追い出すということを実行しなかった。逆に、豊臣方では徳川方への徹底抗戦派が力を増し、牢人を集めるなどし、再軍備を行うありさまだった。このことが徳川方を大いに刺激し、大坂夏の陣がはじまったのである。

 大坂夏の陣がはじまったものの、豊臣方は大坂城の防御機能が失われたので、もはや籠城戦はできなかった。仕方がないので、積極的に城外に打って出たが、豊臣方には大名が誰も味方にならず、不利なのは明らかだった。こうして豊臣方は城外で連戦連敗し、丸裸の大坂城を徳川方に攻められ、ついに落城したのである。

参考文献一覧

笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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